第2章
鞭が振り下ろされた瞬間、避ける暇すらなかった。皮膚がぱっくり裂ける。一本、また一本。骨まで砕く気なのかと思うほど、容赦なく叩きつけられる。
痛みで言葉が形にならない。喉の奥から漏れるのは、ちぎれた呻き声だけ。身を丸め、両腕で腹をかばった。
咳き込みが込み上げる。喉の奥に、鉄みたいな生ぬるい甘さ。口端から血が伝い、床に落ちて、どす黒い赤がじわりと広がった。
ヘレナはそれを見て、表情を変え、手を止めた。
鞭を放り投げ、鼻で笑う。
「これで少しは大人しくなったかしら?」
床に手をついて起き上がろうとした、その瞬間――身体が震えた。激しい咳き込み。血がひと息に噴き出して、彼女の靴に飛び散る。
ヘレナは靴先の赤を見下ろし、顔を歪めた。
「このクズ!」
金切り声と同時に脚が上がり、次の瞬間、容赦なく私の下腹に叩き込まれた。
――世界が、止まったみたいだった。
腹の奥で何かが爆ぜる。裂けるような痛み。私はくの字に折れ、口を最大に開いたのに、声が出ない。
「ほんっと気持ち悪い! 下品で躾もなってない女! うちの息子がどこを気に入ったのか、さっぱりだわ! あの子にはセラフィナだけが相応しいの!」
もう、何を言われているのか聞き取れなかった。
感覚がすべて下腹に集まる。そこが裂けて、壊れて、粉々になっていくみたいに。太ももを温かいものが伝って落ちる。衣服が濡れ、床に雫が落ちていく。
子ども。私の子。
恐怖が氷水みたいに頭から降り注ぎ、全身の芯まで冷えた。
ふいに、周囲が静まり返った。
ヘレナはようやく何かに気づいたのか、床に広がった血溜まりに目をやり――顔から血の気が引いた。
「見張ってなさい」
それだけ護衛に投げつけるように言い残し、彼女は足早に城の外へ向かった。重い扉が、またどん、と閉まる。
護衛たちは相変わらず無表情のまま、そこに立っている。誰一人、近寄ってこない。
冷たい床が頬に触れる。冷たさは感じない。ただ、痛い。
子宮の中に火の塊を放り込まれたみたいだった。肉の一片一片を焼き尽くし、灰にしていく。
下が、どんどん濡れていく。意識が霞みはじめた。
そのとき、泣き声が聞こえた。小さくて、遠くて――底なしの深みから届くみたいな声。
「ママ……」
子どもの声。
私の子が、私を呼んでいる。
涙が音もなく流れ、床の血と混じった。
手を伸ばしたい。お腹を撫でたい。ここにいるよ、聞こえてるよって伝えたい。
でも、動けない。
ごめん。
ごめんね、赤ちゃん。
ママ、守れない。
もうすぐ死ぬ。
私も、この子も――ここで。
「さっき族長の母親が、こそこそとここから出ていくのを見たぞ。お前らは休みを取ったって聞いたが? どうして族長の城にいる」
扉口に立つ大柄な影。護衛を詰問している。
護衛隊長ケール。何度か見かけたことがある。
「隊長、族長のご指示です」護衛の一人が気まずそうに答えた。
「族長の……?」ケールは眉をひそめ、言いかけて止まった。瞳孔が細く縦に裂ける。匂いを嗅ぎ取った獣みたいに。
次の瞬間、護衛の横をすり抜け、血溜まりの中に横たわる私へ視線が突き刺さった。
顔色が一気に青ざめる。
「なんてこと……フレイア! お前ら、彼女に何をした!」
「族長の命令です、隊長」
「命令だと? ふざけるな!」
ケールは腰から通信水晶を引き抜いた。幽青の光がふわりと立ち上り、空中にエイドリアンの姿が映る。
「エイドリアン!」ケールが怒鳴る。「俺の部下を回したことは目をつぶる! だが、お前の番が大量に血を流してる! 死にかけてるぞ! 分かってるのか!」
エイドリアンは苛立った声で言い捨てた。
「ケール、あいつは芝居をしているだけだ。騙されるな」
「エイドリアン、俺は本当に――」
「もういい」エイドリアンが遮る。「隊長。俺は族長だ。俺の言うとおりにしろ」
水晶の光が消えた。
ケールはその場で固まったように立ち尽くし、ゆっくり私を見た。
私はもう喋れない。ぼんやりした目で、彼を見返すしかない。
お願い。
お願い、私の子を――。
彼は目を閉じ、立ち上がり、扉へ向かった。
行ってしまう。
最後の希望が、崩れる。
私は目を閉じた。すべて終わった――そう思った瞬間、ケールの声が、もう一度響いた。
「命令が何だろうと関係ない。命だ。癒し手を呼ぶ」
目を開けると、彼は外へ出ていなかった。護衛たちと向き合い、低い声で言葉を重ねている。
護衛が沈黙したままなのを見て、ケールは水晶に向かい、何かを小声で告げた。
十分後、医療鞄を抱えた年老いた蛇族が駆け込んできた。
私の状態を見た途端、息を呑む音がした。
手早く確認し終えると、顔色がさらに悪くなる。
「今すぐ医療所へ運ばないと! ここには何もない……こんな緊急の状況は処置できん!」
「族長の命令で、城から出すなと言われています」護衛が言った。
癒し手は怒りに目を燃やして彼らを睨みつけたが、結局、医療鞄から薬草を取り出し、私の傷の手当てを始めるしかなかった。
――足りない。
命が、身体からこぼれ落ちていくのが分かる。少しずつ、少しずつ。砂時計の砂みたいに。
