第1章
「お母さん、しっかりして!」
土石流が巨石を巻き込み、今にも崩れ落ちそうな診療所の外壁に激突する。
診療所の暖房はとうに切れていた。気温は氷点下に迫っている。
母の体は氷のように冷たかった。重い持病が再発し、深刻な低体温症に陥っているのだ。
これ以上ここに留まれば、母は死んでしまう。
私は震える手で、夫である平村航平の電話を鳴らした。
「律子、ヘリはもう出発したと言っただろう」
電話の向こうから聞こえる彼の声には、微かな苛立ちが混じっていた。
「航平、お願いだから早くして! お母さんがもう駄目なの! 土石流にここが押し流されるのも時間の問題よ!」
私は電話口に向かって絶叫した。
「二十分だ」
彼は冷淡にそう言い放った。
「大人しく待っていろ」
私は最後の命綱にすがるように、スマートフォンをきつく握りしめた。
「お母さん、聞こえる? 航平がもうすぐ迎えに来てくれるからね」
母は目を閉じたまま、その呼吸は感じ取れないほど弱々しかった。
十五分後。
耳を覆いたくなるようなエンジンの轟音が響き、強烈なサーチライトの光の筋が窓を掠めた。
救助ヘリが来た!
私は母を抱きしめ、着陸に備えた。
しかし、頭上の轟音はそれ以上近づいてこない。ヘリは空中で突如としてホバリングを始めた。
そしてあろうことか、反対方向にある別の山頂へ向かって全速力で飛び去っていったのだ!
私は狂ったように窓際へ駆け寄り、力任せにガラスを叩いた。
「戻ってきて! 飛ぶ方向が違う! 私たちはここよ!」
だがヘリは、一抹の躊躇いすら見せることなく無情にも遠ざかっていく。
不意に通信機が鳴った。ヘリの内部チャンネルが私のスマートフォンに繋がったのだ。
「航平? どうしてヘリが行っちゃうの!?」
私は画面に向かって悲痛な金切り声を上げた。
「優香の閉所恐怖症が発作を起こしたんだ」
彼の口調は硬く、一切の感情が削ぎ落とされていた。
「彼女は向こうの山荘に閉じ込められている。停電のせいで呼吸困難に陥り、ショック状態の兆候すら見せているんだ」
北原優香。
航平の亡き親友の妹。彼が家に連れ帰ってきた、いわゆる養妹だ。
「航平、狂ったこと言わないで! お母さんは低体温症なのよ! ここはもうすぐ崩れるの!」
私は涙ながらに叫んだ。
「律子、大げさなことを言うのはやめろ」
航平の声には、極度の嫌悪感が滲み出ていた。
「衛星雲画像は確認した。お前たちがいる中腹は標高が高く、当面は安全だ。だが優香は違う! もし彼女の身に何かあれば、俺はどうやって死んだ親友に顔向けすればいいんだ!? 先に彼女を救出しなければならない。お前たちはそこで次の救助ヘリを待て」
「航平!」
私は絶望の底から喚き散らした。
しかし、通信は一方的に切断された。
鼓膜を破るような轟音と共に、裏山の土石流が完全に牙を剥いた。
大木を呑み込んだ泥流が、瞬く間に診療所の壁の半分を押し流す。
「お母さん!」
私は飛びつき、自らの体で必死に母を庇った。
だが、遅すぎた。
先ほどまで微かに痙攣していた母の指先が、力なく垂れ下がる。
遺言一つ残すことなく、母は私の腕の中で完全にその温もりを失った。
私はその場に凍りついた。頭の中が真っ白になる。
どれくらいの時間が経っただろうか。数時間かもしれない。地元の救急隊員がようやく、瓦礫の山を困難の末に切り開いてくれた。
——
病院、霊安室へと続く廊下。
私は薄っぺらい死亡診断書を握りしめ、まるで生ける屍のように壁に寄りかかっていた。
廊下の突き当たりから、慌ただしい足音が聞こえてくる。
航平が来た。
彼の端正な顔立ちには、隠しきれない苛立ちと怒りが張り付いていた。
「律子、お前は一体いつまで騒ぎ立てるつもりだ」
彼が口にした最初の言葉は、問いかけではなく、断罪だった。
「せっかく救急救命室に運んでやったのに、わざわざこんな薄暗い場所まで抜け出してきて、死んだふりでもしているのか?」
「優香がどれだけ怯えていたか、分かっているのか?」
「あいつは身寄りのない可哀想な孤児なんだぞ! 両親もいない、俺しか頼れる人間がいないんだ!」
「それに引き換え、お前はどうだ。平村家の女主人でありながら、それくらいの度量も持ち合わせていないのか? よりによってこんな時に、連絡を絶つなんていう小芝居を打ってまで気を引きたいのか?」
航平は冷ややかな目で私を見下ろした。まるで私が、悪意に満ちた嫉妬深い悪女であるかのように。
たった一機のヘリを奪い合うために、母親の病気まで持ち出して嘘をつく女だと。
私はゆっくりと顔を上げ、彼の顔に視線を落とした。
この顔を、私は丸十年愛し続けてきた。
大学時代から、結婚に至るまで。
私は自分が、彼の人生における唯一の存在だと信じて疑わなかった。
彼が優香を連れて帰ってくるまでは。
そこから、すべてが狂い始めたのだ。
「……もう気は済んだ?」
私は冷え切った声で口を開いた。
航平は眉をひそめた。私のこの態度に、ひどく違和感を覚えているようだ。
昔の私なら、とっくに泣きながら彼の胸に飛び込み、問い詰めていただろう。
だが今の私には、彼を問い詰める気力すら無駄に思えた。
「お母さんは死んだわ」
私は彼の目を真っ直ぐに見据え、一字一句噛みしめるように宣告した。
航平の瞳孔が急激に収縮する。
「……何を言っている?」
彼は私を穴の空くほど見つめ、私の顔から嘘の痕跡を一つ残らず探し出そうとしているようだった。
「律子、そういう冗談は笑えないぞ」
私は何も答えなかった。
ただ、サインされたばかりの死亡診断書を、彼の胸に軽く押し当てただけだ。
航平は俯き、そこに書かれた文字をはっきりと目でなぞった。
一瞬にして、彼の顔から血の気が引いていく。
「そんな……」
彼は半歩後ずさりし、微かに唇を震わせた。
「俺が離れた時は、あそこはまだ絶対安全だったはずだ。お前たちなら待っていられると……」
「社長!」
切羽詰まった叫び声が、彼の譫言を遮った。
廊下の角から、優香の助手が息を切らして駆け寄ってくる。
「平村社長! 大変です! 優香お嬢様が目を覚まされたのですが、怖いと泣きじゃくって、今すぐ社長にお会いしたいと!」
航平はハッと我に返った。
彼は助手と私を、交互に見比べる。
彼はその場に縫い止められたように動けなくなった。
「律子、俺は……」
「行きなさい」
私はひどく穏やかな声で彼の言葉を遮った。
「あの子には、あなたしかいないんでしょう?」
私は自嘲気味に、口の端を吊り上げてみせた。
「……すぐ戻る」
彼は奥歯を噛み締め、空虚な約束を一つ残した。
そして、一度も振り返ることなく去っていった。
一切の迷いがないその背中を見つめていると、最後に残っていた微かな心の痛みさえも、完全に消え去ってしまった。
私はスマートフォンを取り出し、顧問弁護士の番号を呼び出した。
「佐々木、離婚協議書を作成して。なるべく早く」
通話を切り、振り返った私の視界に、小柄な人影が飛び込んできた。
大きめの患者服に身を包んだ優香が、すぐそこの曲がり角に立っていたのだ。
その頬は血色良く染まり、瞳には一点の曇りもない。
彼女の口元には、隠そうともしない悪意に満ちた優越感の笑みが浮かんでいた。
「ねえ律子さん、航平お兄ちゃんと離婚するの?」
