第1章
『ラ・ドゥース』のヘーゼルナッツケーキを涼に買ってあげるため、私は三ヶ月間もトイレ掃除のバイトを続けた。
安っぽくて汚れの染み付いた作業着姿の私を、店員は万引き犯でも見るような冷たい目で睨みつけていた。
それでも、私の心は甘い幸福感で満たされていた。
今日は涼の誕生日。そして何より、ついさっき医師から「適合する角膜ドナーが見つかった」という一通のメールが届いたのだ。
交通事故で視力を奪われて以来、才能溢れるピアノの天才は完全に地に堕ちた。残されたのは、夜になれば私をきつく抱きしめ、絶望のあまりグラスを壁に投げつけて粉々にする、哀れで自暴自棄な一人の男だけ。
「恵理奈、俺はもう障害者だ」彼はいつもそう口にした。「こんな盲目の負け犬を軽蔑しないのは、お前だけだよ」
私が彼の目であり、杖であり、生きる唯一の理由だと言ってくれた。
その天文学的な手術費を工面するため、私は大学院への進学を諦め、清掃員として働く道を選んだのだ。
再び光を取り戻した時の、彼の驚き喜ぶ顔が目に浮かぶ。
アパートのドアの前に立った時だった。中から漏れ聞こえてきた明るい笑い声に、私は頭から氷水を浴びせられたように凍りついた。
「いつまでそのフリを続けるつもり? トイレの洗剤臭い女に、純愛ごっこをされるなんて反吐が出そうなんだけど」
女の声は、どこか甘ったるく、媚びるような響きを帯びていた。
わずかに開いたドアの隙間から覗き込み、私は血の気が引くような光景を目の当たりにした。
暗闇の中で手探りでしか動けず、私が水を飲ませてあげていたはずの涼が、シルクのネグリジェを羽織った琴音をしっかりと抱きしめていたのだ。
その両目は澄み切っており、失明の痕跡など微塵も見当たらない。
琴音は彼の首に腕を絡ませ、風に揺れる花のように可憐に笑った。「あのバカ女、あなたが本当は目が見えてるのに、トイレ掃除をしてまで養ってくれてるって知ったら、ショックで死んじゃうかしら?」
涼は琴音の腰を抱き寄せ、嘲弄に満ちた声で答える。
「自業自得さ。桜華デザインアカデミーで、事あるごとにお前を出し抜いてきたんだからな。三年間、犬のように俺に尽くさせたこと——それがアイツへの罰さ」
——そういうことか。
過去三年の涙も、絶望も、「お前がいなきゃ死んでしまう」というあの言葉も……すべては、元カノの嫉妬心を晴らすために仕組まれた、周到な茶番劇だったのだ。
私は震える手でスマートフォンを取り出し、三年前から着信拒否にしていたある番号を開いた。
この街の半分を牛耳るとまで言われる、あの男の連絡先を。
涙を拭うと、砕けたガラスのような脆い感情は消え去り、氷のように冷たい決意だけが瞳に宿った。そして、送信ボタンをタップする。
「修平、あの婚約の話、受けるわ」
ケーキの箱の角が指に食い込み、鋭い痛みを走らせる。
「あなたって本当に意地悪ね」琴音はくすくすと笑い声を上げた。「あのデザインの天才、須田恵理奈がよ? あなたのトイレ掃除にまで喜んで這いつくばってるんだから。しかも、彼女の母親のデザイン画を使って、私の今季の最終コレクションを描いてくれたなんて知ったら、その場でショック死するんじゃない?」
私は限界まで目を見開き、さらに隙間の奥へと視線を凝らす。
琴音が手に取ったのは、焦げ茶色の革表紙のノート。
それは、亡き母が遺した大切な遺品。涼の治療費のために、私が泣く泣く手放したものだった。
涼は持っていたペンを放り投げ、その「見えない」はずの目に赤裸々な欲望の炎を宿した。
「それよりも、俺はもっと別のものを君に与えたいな……」
二人は、まるでこの世に自分たちしかいないかのように激しいキスを交わし始めた。
おぞましい。
吐き気がする。
私は、思い切りドアを蹴り開けた。
分厚い木製のドアが壁に激突し、鼓膜を劈くような轟音が部屋中に響き渡る。
醜悪なイチャつきは、一瞬にして凍りついた。
涼は私を直視し、パニックで瞳孔を開かせた。
「え……恵理奈? お前……帰ってたのか? 俺は……これは……」
彼は慌てて琴音を突き放そうとしたが、彼女はわざと彼にすがりついたまま離れようとしない。
やがて琴音はゆっくりと立ち上がり、ネグリジェの裾を整えながら、面白がるような笑みを浮かべた。
涼は硬直して突っ立っている。いつも私に偉そうに命令していたあの病人は、今はまるで浮気現場を押さえられた滑稽なピエロだった。
彼は私に近づこうと一歩踏み出し、無意識に両手を前へ突き出して、必死に盲目の演技を続けようとする。
「恵理奈、話を聞いてくれ……」
「言い訳はいいわ」私は冷たく話を遮った。「琴音を膝に乗せてキスするのが、視神経を回復させる最新の理学療法だとでも言うつもり?」
涼は言葉に詰まった。
「それとも——」
私はさらに一歩近づき、彼の両目を真っ直ぐに見据えた。
「今日たまたま神様があなたの目にキスをして、奇跡的に光を取り戻したとでも言うの?」
綺麗に塗り固められた嘘の皮が剥がれ落ち、そこから蛆虫の湧くようなおぞましい真実が顔を出した。
その瞬間、涼は抵抗を諦めたようだった。
私は琴音が握りしめているデザイン画を睨みつけた。「それは母の遺稿よ。返しなさい」
琴音は眉をひそめ、まるでとびきり滑稽な冗談でも聞いたかのように鼻で笑う。
彼女はわざと原稿を高く掲げ、バサバサと見せつけるように振った。紙の擦れる音が、私の鼓膜を突き刺す。
「返す? どうして?」琴音は冷ややかに笑い捨てた。「これは涼が私にくれたものよ。トイレ掃除で汚れたその手で、これに触れる資格があるとでも思ってるの?」
「それは私のものよ」私はギリッと歯を食いしばった。
母が私に残してくれた、最後の形見。こんな連中の手に渡したままにしておくわけにはいかない。
「今は私の手にあるんだから、私のものよ。でも、どうしても欲しいって言うなら……」琴音は小馬鹿にしたように目を細め、その口元に残酷な笑みを浮かべた。「三千万円ね」
「三千万円払えば、こんなゴミみたいなノート、返してあげてもいいわよ。もし払えないなら……」
彼女は手元のライターをカチリと鳴らし、紙の端へと火先を近づけた。
「燃やしちゃうけど」
私が今、銀行口座に三万円すら残していないことを、彼女は重々承知しているのだ。
私は涼に視線を向けた。
かつて「君が望むものなら、俺のものはなんだってあげるよ」と甘く囁いていたその男は、今はただ黙りこくり、私をかばう言葉一つ発しようとしない。
「わかった。三千万円、私が買うわ」私は静かに答えた。
母が残してくれた最後の思い出を取り戻しさえすればいい。そしてこれからの人生、目の前にいるこの吐き気を催すようなゴミどもとは、二度と関わりたくなかった。
「気でも狂ったの?」琴音は信じられないと言わんばかりに大笑いした。「体でも売るつもり? それとも腎臓でも売るの? 三千万円よ? 寝言は寝てから言いなさいよ!」
