第3章
涼からの返事は聞こえなかった。
掌の中で、スマートフォンが激しく震えている。
通話ボタンを押した途端、鼓膜を劈くような金切り声が響いた。
「恵理奈! あんた一体どこをほっつき歩いてるのよ! 帝都セントラルタワーのペントハウスの清掃、今すぐやらなきゃならないの! クビになりたいわけ?! 十分以内に来なかったら保証金は没収だからね! それから先月の給料も——全部パーよ!」
たった二時間前なら、どれほど高熱に魘されていようと即座に平謝りしていただろう。
二万円の皆勤手当をもらうためなら、涼の今週の治療費を少しでも稼ぐためなら、嵐の中でも地下鉄の駅へと駆け出していただろう。
たった千円の特別手当のために、金持ちの家の大理石の床に這いつくばって歯ブラシでタイルの目地を磨き、両手があかぎれで針で刺されたように痛んでも耐え抜いてきた。
盲目のふりをしていた涼のため、犬のように惨めな日々を生き抜いてきたのだ。
「何か言いなさいよ! 聞いてんの!? やりたくないなら、さっさと消えなさい!」
チーフの怒声はまだ続いている。
ショーウィンドウに映る、ボロボロになった自分の姿を見つめ——私はふっと笑みをこぼした。
「ええ、辞めさせてもらいます」
通話切断。着信拒否。
安物の洗剤のツンとした臭いが染み付いた上着を脱ぎ捨て、最も近くにあるゴミ箱へと放り込んだ。
かつての恵理奈はもう死んだのだ。
翌日。冴島グループの傘下にあるクラウド・サミット会場。
「年間パイオニアデザインVIPプレビュー晩餐会」の開催は、まさに虚栄心の極致とも言える催しだった。
私は着古した黒いワンピースを身に纏い、警備員にスマートフォンの画面に表示された最高アクセスコードを提示した——今朝、修平から直々に送られてきたものだ。
何と言っても、ここは冴島の縄張りなのだから。
会場内では、メディアの喧騒を掻き消すように琴音の声が響き渡っていた。
「私のインスピレーションは、確かに『新生』に対する私自身の解釈から得たもので——」
厚顔無恥にも程がある。私の母の遺稿から盗んだアイデアを、いけしゃあしゃあと自分の手柄として吹聴しているのだ。
そのとき、彼女の視線が毒蛇のように会場内を舐め回し、やがて片隅にいる私を捉えた。
「いやだわ! 警備員! 警備員はどこ?!」
琴音はこれ見よがしに甲高い声を上げた。
「このゴミはどうやって入り込んだの? 空気が汚れるじゃない!」
会場にいる全員の視線が、一斉に私へと突き刺さる。
琴音はズカズカとこちらへ歩み寄り、その後ろには飢えた狼のような記者たちが群れをなしてついてきた。
「恵理奈、あんた泥棒にでも来たの? それともパトロンでも引っかけに来た? ただの清掃員がクラウド・サミットに足を踏み入れるなんて、どういう神経してるわけ?」
群衆の中から、クスクスと嘲笑が漏れる。
「あんな底辺のクズ、どうやって入り込んだんだ?」
「まったく、最近の貧乏人は恐ろしいね。何でも台無しにしてしまう」
「菌を撒き散らされる前に警察を呼ぼうぜ」
ハエのように纏わりつく、悪意に満ちた視線。
私は彼女を避けてメインホールへ向かおうとした。だが、足を踏み出した瞬間、琴音が突如として飛びかかってきた。彼女は振り返るふりをして、私の体を思い切り突き飛ばしたのだ。
「下水道に帰りなさい、この耳の聞こえないドブネズミが!」
渾身の力を込めた一撃。
私は瞬時に体勢を崩し、たたらを踏んで後退するも、為す術もなく倒れ込んだ。
銃声のような凄まじい音が、宴会場に響き渡る。
背中がガラス製のショーケースに激突し、今夜の目玉であるブルーダイヤモンドのネックレス——『深淵の涙』が滑り落ちた。
そして、床に叩きつけられて粉々に砕け散ったのだ。
誰もが目を丸くし、目の前の残骸を凝視している。
「なんてことだ……あれは深淵の涙……」
「四十億円は下らない代物だぞ……」
「終わったな。あの女、自分の臓器を何万回売ったところで到底払いきれまい」
最初の驚きが過ぎ去った後、琴音の顔に歪んだ狂喜の表情が浮かび上がった。
彼女は私を見下ろし、背筋が凍るような嘲りを込めた口調で言い放つ。
「随分と派手にやってくれたわねえ、恵理奈」
私は床から身を起こした。掌は破片で切り裂かれ、ドクドクと鮮血が流れ出ている。
「あなたが私を突き飛ばしたんでしょう」
私は静かに告げた。
「誰が見たっていうの?」
琴音は周囲を見回す。
先ほどまでヒソヒソと囁き合っていた自称エリートたちは、今や一様に目を逸らすか、あるいは面白半分にこの騒動を見物している。
ただの清掃員のために口を開く者など、ここには一人もいない。それが現実だ。
「聞きなさい、恵理奈」
琴音は私の耳元に顔を寄せた。
「今すぐ警備員に警察を呼ばせてもいいのよ。あんたは数億円の借金を背負ったまま、一生を刑務所で過ごすことになる。死んだ母親の評判も、あんたと一緒に地に落ちるわけ」
「だけど——」
彼女は姿勢を正し、会場の全員に聞こえるように声を張り上げた。
「私たち、腐れ縁の『お友達』じゃない?」
彼女は一歩下がり、大きく両足を開いた。
「今すぐ犬みたいに私の股をくぐりなさい。這いつくばりながら、『私は泥棒で、淫乱な女です』って叫ぶのよ。そうすれば見逃してあげる。主催者にお願いして、損害賠償なしで刑務所に入るだけで済むようにしてあげるわ」
「どう? これがあんたにかけてやれる最大の情けよ」
会場に息を呑む音が響く。これは単なる屈辱ではない。人間の尊厳を生きたまま剥ぎ取り、泥の中へ容赦なく踏み躙る行為に他ならなかった。
「いくらなんでも、やりすぎじゃないか……?」
誰かが小声で呟く。
——しっ、彼女は未来のチーフデザイナーだぞ。関わるな。
琴音は勝ち誇ったような顔で私を見下ろし、私が尻尾を振って命乞いするのを待ち構えている。
「……ふざけないで」
怒りで震える声で、私は吐き捨てた。
「まだそんな強がりを?」
琴音の顔がサッと陰る。
「警備員! この狂った女を押さえつけなさい! 自力で這えないみたいだから、手伝ってあげて!」
二人の大柄な警備員が突進してきて、乱暴に私の肩を掴み、床へと押さえつけた。
無理やり膝を折られ、激痛が全身を駆け巡る。
私は顔を上げ、琴音の歪んだ顔を真っ直ぐに睨みつけながら叫んだ。
「私は須田恵理奈! 冴島修平の婚約者よ!」
空気が、一瞬にして凍りついた。
次の瞬間、先ほどの十倍はあろうかという爆笑の渦が巻き起こった。
「狂ってる! あの女、完全に頭がおかしいぞ!」
「玉の輿を狙うにも程があるだろ? 冴島修平が清掃員なんかを妻に迎えるわけないじゃないか!」
「今年一番の傑作だぜ、ハハハッ!」
琴音は涙を流して笑い転げている。
「婚約者? あんたが本当に修平の婚約者なら、私は神様よ! 頭おかしいんじゃないの? とっとと精神科にでも行け!」
彼女の笑みがスッと消え、純粋な悪意がその顔を覆った。
「何をぼやぼやしてるの? その口を塞ぎなさい!」
警備員たちは渾身の力で私にのしかかり、両手で私の頭を力任せに押さえつけた。その想像を絶する力に、息が止まりそうになる。
絶望が、冷たい波のように私を飲み込んでいく。
私の顔が無理やり琴音の股下へと近づけられようとした、まさにその時——群衆が、見えない力によって真っ二つに裂かれた。
赤い絨毯の奥から、長身のシルエットが姿を現す。
冴島修平。
オーダーメイドの漆黒のスーツが、彼の逞しい体躯を完璧に引き立てている。
悪鬼のような二人の警備員は彼を見るなり、まるで蛇に睨まれた蛙のようにその場で硬直した。彼らは顔面を蒼白にし、ガタガタと震える手で私から手を離した。
彼らは真っ青になり、ガタガタと震える手で私を解放した。
「冴島さん……冴島さん」
修平は私の無残な姿と、掌から滴り落ちる鮮血に目を留め、微かに眉を顰めた。
彼の声は低く、致命的で、一切の反論を許さない響きを帯びていた。
「誰の許可を得て、俺の婚約者に触れている」
