第1章

 見知らぬ番号からその動画が送られてきたとき、私はキッチンに立ち、彼のための夕食を作っているところだった。

 画面のなかで、彼はソファに腰を下ろし、小さな男の子の額に口づけをしていた。笑いながら「お父さん」と呼ぶその子に向ける彼の優しい眼差しは、私にとってあまりにも見慣れたものだった。

 傍らに立つ女の顔にも見覚えがある。角田綾美——三年前に雪崩から彼の命を救った、あの女だ。

 悪意のある切り貼りだと思いたかった。誰かが私たちの夫婦関係を裂こうと企んでいるだけなのだと、必死に自分に言い聞かせた。

 それでも胸の奥で渦巻く不安をどうすることもできず、結局私は私立探偵を雇ってしまった。

 探偵から調査報告のメールが届いた瞬間、私の信じていた世界は音を立てて崩れ去った。

 マンションの賃貸契約書、契約日は二年前の六月。毎月の銀行振込明細、一定の金額、そして備考欄に記された『生活費』の文字。小児科のカルテ、そこにある子供の苗字は彼と同じだった。さらに幼稚園の保護者会の出席簿には、乱筆ながらもはっきりと彼の字でサインが残されている。

 画面に並ぶ無機質な数字や日付を見つめながら、私は悟った。ここ三年間、拓治の口から語られた『急な出張』や『クライアントの接待』、『プロジェクトの商談』——その一つ一つの裏に、いったい何が隠されていたのかを。

 スマートフォンが床に滑り落ち、視界がぐるぐると回り出す。ドクン、ドクンと耳障りな自分の鼓動が響き、その一つ一つが私を責め立ててくる。

 ——どうして、ここまで愚かでいられたの?

 不意に目の前が真っ暗になり、私はそのまま意識を手放した。

 目覚めると、彼は私のベッドの傍らにいた。

 血走った双眸、顎には二日分の無精髭が伸び放題になっている。

「弥佳」

 彼は私の手をきつく握りしめ、ひどく掠れた声を出した。

「気がついたんだね。よかった……本当によかった」

 執事が教えてくれた。拓治は電話を受けたとき、まさに大規模なクロスボーダーM&Aの商談中だったという。彼は一言も発さず、周囲の人間を押しのけてビルを飛び出した。そしてマンハッタンからロングアイランドまで、運転手に猛スピードで車を飛ばさせたのだと。

 丸二日間、一睡もしていないらしい。

 彼の瞳に浮かぶ恐怖と深い愛情。それはあまりにも真に迫っていて、私が見たあの証拠の数々こそが幻だったのではないかと錯覚しそうになる。

 けれど、そうであればあるほど、私の心は無残に砕け散っていくのだ。

 もし彼が私を愛していないのなら、裏切られてもこれほど苦しくはなかっただろう。彼は確かに私を愛している——それなのに、別の女を選び、別の家庭を築いていた。

 私はかつて、彼の命を救った。七年前の交通事故の際、彼を庇って前に飛び出した私に与えられたのは、誰もが羨むような盛大な結婚式と、世間に語り継がれる美しいラブストーリーだった。

 一方で綾美もまた、彼を救った恩人だ。私の与り知らぬ暗がりの中で、彼女が手に入れたのは一人の子供と、温かなもう一つの家庭だった。

 彼は自分の命を救ってくれた女には皆、こんなふうにして報いるのだろうか。

「誰に酷いことをされた?」

 彼の親指が、私の手の甲をそっと撫でる。

「言ってごらん。俺が片を付けるから」

 ふと、彼から微かな香水の匂いが漂ってきた。甘ったるいフローラルノート——私が絶対に身につけない香り。それに混じって、ベビーパウダーの淡い匂いも鼻を掠める。

 胃の奥が激しく波打った。

 私は彼を突き飛ばすようにしてベッドを降り、よろめく足取りでバスルームへと駆け込み、便器の前に崩れ落ちて激しくえずいた。

 彼も後を追ってきて、床に片膝をつき、温かいタオルで私の顔を優しく拭ってくれる。

「大丈夫だ、俺はここにいる」

 彼はひたすら優しい声で囁いた。

「どこへも行かないよ」

 その言葉を聞いた瞬間、七年前のあの事故の記憶がフラッシュバックした。

 彼に向かって突っ込んでくる暴走車を身を呈して庇った代償として、私の子宮は深刻なダメージを負った。医師に宣告された妊娠の確率は、わずか5パーセント未満。この七年間、数え切れないほどの薬を飲み、きつい不妊治療に耐え、三度の体外受精も失敗に終わった。その度に、希望の光が点っては絶望のどん底へと突き落とされることの繰り返しだった。

 出口の見えない苦痛の連続に、私はもうすべてを諦めかけていたのだ。

 先月、妊娠検査薬にくっきりと二本の線が浮かび上がるまでは。

 私は可愛らしいベビーシューズを入れた小箱を用意し、今夜のキャンドルディナーで彼にサプライズを仕掛けるつもりでいた。信じられないといった驚きと喜びに満ちた彼の顔が見たかった。『ついに俺たちにも子供ができたんだな』という言葉が聞きたかった。

 けれど今、こうしてバスルームの冷たい床に這いつくばり、彼の手厚い介抱を受けているこの瞬間——猛烈な吐き気しか湧いてこない。

 それはつわりのせいではない。ただただ、気味が悪いのだ。

 彼の底知れぬ偽善が、そして何より、自分自身のあまりの滑稽さが。

「あなたに、話があるの……」

 私は重い頭を上げ、なぜ私を裏切ったのかを問い詰め、私が身籠っていることを告げ、彼自身の口から弁明を聞き出そうとした。

 ——そのとき、彼のスマートフォンが震えた。

 画面をひと目見た瞬間、彼の顔色が変わる。

「ごめんよ」

 彼は私の額に軽く口づけを落とした。

「会社で急なトラブルが起きてね。君のことは執事に任せるから」

 そして、彼は去っていった。

 あっけなく、私の前から姿を消した。

 それから四十分後。例の見知らぬ番号から、再び一枚の写真が送られてきた。

 小児科救急外来の廊下。拓治が例の男の子を抱きかかえ、疲労を滲ませながらも慈愛に満ちた表情を浮かべている。わざわざ私に見せつけるように計算されたアングル。綾美は私に誇示したかったのだ。たとえ真夜中であろうと、私が倒れて目を覚ましたばかりであろうと、あの子が求めさえすれば、拓治は私を放って飛んでいくのだという事実を。

 画面に映るその光景をまじまじと見つめながら、私は喉の奥からカラカラとした笑い声を絞り出した。砕け散ったガラスの破片のように、ひどく乾いた響きだった。

 執事に大丈夫だと告げて下がらせた後、私は寝室に戻り、親友のクルミに電話をかけた。

「交通事故を捏造したいの。手伝って」

 私は淡々と言い放った。

「誰の目から見ても怪しまれない、完璧なやつをね」

 電話越しに、三秒ほどの沈黙が落ちる。

『はぁ? あんた、頭おかしくなったの? いったい何を……』

「拓治が裏切ったの」

 私は彼女の言葉を遮り、ひどく凪いだ声で告げた。

「でも、あの人は絶対に私を逃がそうとはしない。手持ちの権力をすべて使ってでも、地の果てまで私を追いかけてくるはずよ。私が自由になるためには、死ぬしかないの」

 通話を終えると、私は過去の痕跡を消し去る作業に取りかかった。

 彼から贈られたジュエリーの数々をディスポーザーに放り込み、鋭い刃がすべてを粉砕していく様を見下ろす。十年分のラブレターは、一通残らず引き裂いてトイレに流した。婚約の際に彼がしたためた直筆の誓約書も、ライターの火を近づけて灰に還す。

 そして——あらかじめ用意しておいた、ベビーシューズの小箱。

 私は暖炉の前に立ち尽くし、可愛らしいピンク色のリボンが炎に舐められ、黒く縮れながら燃え尽きていくのをただ静かに見つめていた。

 永遠に続くと信じて疑わなかったものは、こんなにもあっけなく燃え尽きてしまうものなのだ。

 再び、スマートフォンが震える。

 クルミからのメッセージだった。

『たかが男一人のためにそこまでして、本当に後悔しないの?』

 私は短い文面を打ち込む。

『彼のためじゃない。私自身のためよ。あの人は絶対に私を手放さない。だから、私が消えるしかないの』

 午前三時。最後のメッセージが届いた。

『海沿いのハイウェイ、三日後。すべて手配したわ』

 私はスマートフォンの電源を落とし、窓の外に広がる漆黒の海へ視線を向けた。

「もう、終わりにしよう」

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