第2章

 あの夜、私は潮のように押し寄せる不眠に飲み込まれた。

 目を閉じるたび、脳裏にあの動画が浮かび上がる——拓治があの子の額にキスをする光景が、何度も、何度も。やがて、それが記憶なのか悪夢なのかさえ分からなくなった。夜が明ける頃、私はただベッドの端に座り、窓の外の白んでいく空を見つめていた。まるで麻痺した抜け殻のように。

 拓治が帰宅したとき、私はまだ眠っているふりをした。

 彼は上着を脱ぎ、ベッドの端に腰を下ろすと、少し躊躇ってから私を腕の中に引き寄せた。パジャマ越しに彼の体温が伝わり、背中には心音が一拍、また一拍と感じられる。何も起きていないかのように、その鼓動はひどく穏やかだった。

「なぁ、弥佳」彼の声には興奮が混じっていた。

「ちょっと見せたいものがあるんだ」

 C市の朝の陽光が差し込む中、タブレットの画面が点灯し、黄金色のブドウ畑がどこまでも広がっている映像が映し出された。

「ナパ・バレーだよ」彼は言った。

「ワイナリーのプロジェクトに投資したばかりなんだ。俺たちが引退したら、あそこに住んで、毎日ブドウ畑で夕日を眺めよう。君はずっと、そういう静かな暮らしがしたいって言ってただろ?」

 画面の黄金色を見つめていると、不意にそれがひどく目に刺さった。

 彼が写真をスワイプすると、紺碧の海に停泊する白いクルーザーが現れた。

「それからこれも。来年の夏、ヨーロッパ周遊の旅を予約したんだ。地中海からエーゲ海まで、二ヶ月間、俺たち二人きりでね」

「それに、俺たちの八周年記念日ももうすぐだ」彼は向き直り、私の両頬を包み込んだ。その瞳は恐ろしいほど真剣だった。

「サプライズを用意しているんだ。絶対に気に入るって約束するよ」

 私は無理に笑顔を作った。

「なんだか……すごく楽しみ」

 彼は私をきつく抱きしめた。

「弥佳、心から愛してる。君は本当に世界一の妻だよ」

 涙が前触れもなく込み上げてきた。奥歯を噛み締めたが、それでも視界は滲んでいく。

「どうした?」彼はすぐに気づき、慌てた声を出した。

「俺、何か変なこと言ったか?」

「ううん」私は深く息を吸い込んだ。

「ただ……友達のことでね。彼女の夫が浮気したの。あんなに苦しんでいる彼女を見ていたら、私まで悲しくなっちゃって」

 私は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。

「あなたも、そんなことする?」

 この問いは、一本のナイフのように私たちの間に突きつけられ、宙で静止した。

 しかし彼はただ笑った。私がひどく馬鹿げた質問をしたとでも言うように、あっさりと。

「あり得ないよ。君という妻を持てただけで最高の幸運なのに、この俺が浮気なんてするわけないだろ?」

 その目は澄み切っており、口調には迷いがなかった。

 もし真実を知らなかったら、私は間違いなく彼を信じていただろう。

「今日の午後は会社の年次パーティーがあるんだ」彼は私の手を取った。

「一緒に行こう。皆に俺たちの絆を見せつけてやろう」

 断りたかった。具合が悪いと言って、ただ一人でいたいと言いたかった。

 だが、彼の目にある子供のような期待を向けられると、言葉が喉に詰まった。七年間、私は彼のささやかな願いをすべて叶えることに慣れきっていた。たとえ今でも。たとえ、もう離れると決意していても。

「分かったわ」自分の声がそう答えるのが聞こえた。


 パーティーのメインホールはおとぎ話の世界のように飾り付けられ、クリスタルシャンデリアが温かな光を投げかけている。

 拓治は私の腰を抱いてステージに立ち、眼下にいる数百人の社員に向けて微笑みかけた。指笛を鳴らす者、拍手喝采する者、そして囃し立てる者もいる。

「社長、キスして!」

 彼は本当に私の額にキスを落とし、一層の歓声を巻き起こした。

「彼女と一緒になって七年になります」マイクを通した彼の声がホール全体に響き渡る。

「もうすぐ八回目の記念日を迎えます。世間ではよく七年目の浮気と言いますが、私にとってそんなものは全く存在しません」

 彼は言葉を区切り、振り向いて私を見つめた。

 ステージの下からは感嘆のどよめきが沸き起こった。

 私はただ品のある微笑みを浮かべ、頷き、手を振った。まるで訓練された女優のように。

「お祝いとして」拓治はアシスタントに合図を送った。

「皆さんにささやかなプレゼントを用意しました」

 スタッフが美しいギフトボックスを積んだワゴンを押し出してきた。社員たちはそれを受け取り、箱を開けるなり歓声を上げた。

「嘘、Lumièreじゃない!」

「スターライトシリーズだ! これ、少なくとも六桁はするわよ!」

「社長、太っ腹すぎる!」

 私は手元のギフトボックスに視線を落とした。精巧なパッケージに施された金箔押しのブランドロゴは、優雅でありながら見知らぬものだった。

 かつてなら、こうした羨望の眼差しを浴びて、私は幸せを感じただろう。自分のことを世界で一番幸運な女だと思い込み、全世界を私に捧げてくれるような男に嫁いだのだと信じ切っていたはずだ。

 しかし今は、この光り輝くホールに立ち、何百もの羨望の瞳に見つめられていると、ただ息が詰まるだけだった。

 この完璧すぎるショーのせいで、私は危うく忘れそうになっていた。私の見えないどこかの片隅に、別の女がいて、別の子供がいて、別の家庭があるということを。

 手の中のギフトボックスが急に重みを増し、火のついた石のように熱く感じられた。

「角田部長も来てるぞ!」

 人混みの中から誰かが叫んだ。

 顔を上げると、人波を縫って歩いてくる綾美の姿が見えた。黒のスーツにパールネックレス。その顔には柔らかな笑みが浮かんでいる。

 傍らで社員がひそひそと囁き合っていた。「ブランド開発部の部長がパーティーに来るなんて。普段は全然姿を見せないのに」

 彼女は私たちの前で立ち止まった。「社長、奥様、お二人の仲が本当に羨ましいです。私たちの会社は一つの大家族のようなものですから、こんな素敵な光景を見られて心から嬉しく思いますわ」

 その口調は真摯で、眼差しは温かかった。

 だが次の瞬間、彼女は小さくため息をついた。

「でも、私の夫も、私にとても尽くしてくれるんですよ」

 彼女の視線が皆の手にあるLumièreのギフトボックスをなぞり、その声は柔らかさを増した。

「Lumièreは三年前に、彼が私のために特別に立ち上げてくれたブランドなんです。ブランドのポジショニングからグローバル展開に至るまで、全て彼が自ら手掛けてくれました。今では北米に十八店舗の旗艦店があるんですよ」

 彼女が『私の夫』と言ったとき、その視線はさりげなく拓治へと向けられた。

 彼の体がほんの一瞬だけ強張り、私の腰に置かれた腕にぐっと力がこもった。

 彼女は私に向き直った。その笑顔は相変わらず優しかったが、私の目には鋭い刃のように映った。

「奥様、お手にされているスターライトシリーズは、今年のメインモデルなのです」

 彼女は言葉を切り、意味深長に付け加えた。

「気に入っていただけると嬉しいですわ」

 周囲の喧騒はまだ続いていたが、私の耳にはもう、自分の心音しか聞こえなかった。

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