第3章

翌朝。桑野夜子が目を覚ますと、ベッドサイドのナイトテーブルに離婚届が置かれていた。すでに署名済みで、隣には万年筆と銀行カードまで添えられている。

夜子は唇を噛み、書類を手に取って自分の名前を書いた。けれど、カードにはわざと目を向けない。

補償なんて、いらない。

身支度を終えると、淡々と荷物をまとめた。どうせ離婚するのなら、ここに居座る理由はない。

もともと暮らしは質素で、宝石にも興味がない。必要な身分証と下着類だけを鞄に押し込み、小さなスーツケースを引いた。

階段を下り、リビングが見えた瞬間、足が止まる。

浅木辰也がソファに腰を下ろし、黙ってこちらを見ていた。

視線は夜子の顔にほんの一瞬だけ留まり、次には彼女の手元――握られている離婚届へ移る。

夜子は悟って、薄く笑う。ああ、これを待っていたのね。

早足で階段を下り、書類を差し出した。

「サインした」

けれど辰也は受け取らない。ただ、じっと夜子の顔を見つめてくる。まるで別の感情でも探すみたいに。

――さっき、笑った気がした。

この女は、惜しくもないのか。悲しくもないのか。

視線が居心地悪くて、夜子は目を逸らした。受け取るのを待たず、書類をテーブルに置いて玄関へ向かう。

その瞬間、辰也が立ち上がり、彼女の背に向けて――見えない位置で、手をわずかに上げた。

「そうだ」

夜子は不意に立ち止まり、彼の動きを断ち切るように言う。振り返りもしない。

「銀行カードはいらない。必要ないから」

辰也の手が宙で止まる。二秒ほど硬直し、ゆっくりと下ろされた。

「持っていけ。後で俺がお前にしつこく縋られたって、疑わないようにな」

「……っ!」

夜子は堪えきれず振り返り、辰也を睨みつけた。

三年も一緒に暮らしてきたのに、浅木辰也の目に映る自分は――そんなに卑しい女だったのか。

確かに、生活面で不自由はなかった。無茶な頼みでなければ、だいたい叶えてくれた。

けれど、夜子が欲しかったのは、そんなものじゃない。

冷たさを埋め合わせるための金。

名ばかりの結婚を、彼が罪悪感なく続けるための代償。

夜子は反論しなかった。言葉を飲み込み、スーツケースを掴み直すと、逃げるように扉を押し開け、雨の中へ飛び出した。

辰也は、その背中を見送った。決然とした後ろ姿に、胸の奥が沈んでいく。

やっぱり――夜子の中に、自分はない。

離れるのも、迷いがない。

カードの残高なら、彼女は一生困らず暮らせる。それでも興味すら示さない。

金で縛るつもりだと疑っているのか。

辰也は深く息を吸い、いったん目を閉じる。開いたとき、瞳にはもう何の波もなかった。

「ついて行け」

玄関の外で待機していた秘書に、冷たく命じる。

「承知しました、浅木様」

――

桑野夜子が門へ向かったとき、ちょうど一台の車とすれ違った。

半透明の窓越しに見えたのは、鈴木真代。

昨夜離婚を切り出して、今日もう家に上がり込む。そんなに待ちきれないのか。

夜子の脳裏に、昨夜の電話がよぎる。あれはきっと、真代からだった。

高嶺の花の一本の電話で、三年の結婚があっさり捨てられる。すぐにでも再婚のニュースが流れるのだろう。

夜子はずぶ濡れのまま自分の車に乗り込み、スーツケースを助手席へ放り投げてエンジンをかけた。

なのに、なぜか――振り返ってしまう。

雨の幕の向こう。

真代は小さな蝶みたいに車を降り、そのまま辰也の胸へ飛び込んだ。辰也も珍しく自分から二歩踏み出し、彼女を抱きしめる。

そんな甘え方を、夜子は一度もできなかった。

分かっていたからだ。あの人は、自分にそこまで心を向けない。

あまりにも似合いすぎていて、苦しい。

夜子は目を閉じた。目の奥の熱を、必死に押し込める。

もちろん、彼女が目を閉じたその瞬間、辰也が真代の身体をそっと押し離したことなど、知る由もない。

「気をつけろ」

「うんうん、さっきはありがと」真代はまた彼の腕に絡みつく。「あなたがいなかったら、転んでたもん」

辰也は知らない。真代がわざとそうしたことを。

さっきすれ違った女は、あんなに惨めだった。それでも足りない。

あの女は恥知らずにも辰也の三年を占領した。桑野家もあの女も、得だけ得て、どうしてあっさり去れるのか。

だから火をつける。

自分と辰也の親密さを見せつけて、辰也がどれほど「鈴木真代」を大切にしているか、突きつける。

「辰也、さっきのって夜子? どうして荷物持って出て行ったの? 喧嘩しちゃった? 昨日のことなら、みんな冗談だったし……説明した方が――」

口ではそう言いながら、心の中では叫んでいる。

――引き止めないで。行かせて。二度と戻らないように。

辰也は夜子の車を見て、喉がわずかに動いた。

「……放っておけ」

彼は離婚届のことを、わざと言わなかった。

――

一方、夜子は深く息を吸い、目を開ける。

バックミラーには、抱き合う二人の姿。そして辰也もまた、こちらを見ていた。

視線がミラー越しにぶつかった、その瞬間。真代が顔を上げる。

彼女が何か囁いたのか、二人はさらに近づいた。

夜子の眉がひくりと動く。

――挑発?

何を期待してるの。桑野夜子。目を覚ましなよ。

アクセルを踏み込んだ瞬間、胸の奥が妙に軽くなった。

三年間、夫の心には、決して沈まない高嶺の花がいた。痛くてたまらないのに、表面の甘さのために耐え続けた。

でももう、耐えなくていい。

浅木辰也とは離婚した。

辰也――想い人と末永く。

どうか、私みたいな結末にはならないで。

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