第4章

桑野夜子の車が見えなくなるまで、浅木辰也は胸のざわつきを押し殺し、腕をそっと引き抜いた。

「真代。今日は何の用だ」

抱きしめていた温度が消え、鈴木真代の瞳に一瞬だけ寂しさがよぎる。だがそれは、すぐに甘い笑みに溶かされていった。

「帰国したばかりで、国内の友達とも久しぶりなの。会いたいけど……私ひとりで誘うと、ちょっと気まずいし」弱さを見せるように肩をすくめる。「辰也が一緒なら、緊張しないもん!」

浅木辰也は口を開きかけた。「俺も忙しい」と言いかけて、飲み込む。代わりに短く頷く。

「……分かった。時間が合えばな」

「うんうん! やっぱり辰也が一番!」

目的を果たした真代は、それ以上まとわりつかない。「買い物してくるね」と軽く手を振って去っていった。

――桑野夜子みたいに愚かじゃない。男から欲しいものを引き出したら、引き際を知っている。

見送った瞬間、浅木辰也は理由もなく疲れを感じた。

寝室へ戻り、室内を見回す。

ほとんど変わっていない。なのに、どこかが決定的に違う。

あの小さなスーツケースに、何を詰めて出ていった?

化粧台も減っていない。クローゼットの高価な服も、そのままだ。

眉をひそめ、貴重品を入れている引き出しを開ける。今まで手を尽くして贈った宝石、アクセサリー、時計――ひとつ残らず、そこにある。

本当に、何も要らないのか。

浅木辰也は助理に電話した。

「桑野夜子はどこへ行った」

『浅木様。桑野さんは先ほど、海纳斯公館へ車で入りました』

「……どこだ、それは」

電話の向こうが、わずかに沈黙する。浅木辰也が本当に桑野夜子のことを何ひとつ知らないのだと、驚いたような間。

『桑野さんの親友、下津紗恵さんのお住まいです』

浅木辰也は目を閉じ、スマホを置いた。

広い寝室を見渡す。昨日までと同じはずなのに、空気だけが異様に冷たい。初めて感じる、空っぽの寒さ。

結婚して三年。彼女がここで眠らない夜は、初めてだ。

――もう戻らない。

その考えが浮かんだ瞬間、浅木辰也は舌打ちし、踵を返して階段を駆け下りた。鍵を掴み、玄関を飛び出す。

一方、海纳斯公館。

インターホンに出た下津紗恵の胸へ、びしょ濡れの細い体が倒れ込んできた。

「ちょっと……夜子!? どうしたの!」

まるで水から上がったばかりみたいに、全身が濡れている。それに体温が異様に高い。

額に触れた紗恵が、声を裏返した。

「熱あるじゃん! 夜子、発熱してる!」

桑野夜子はほとんど意識がなかった。ここまで運転してきたのが限界だったのだ。唯一信じられる親友に縋りついた途端、力が抜けた。

紗恵の肩に頬を寄せ、粘ついた声で言う。

「……たぶん。辰也の家を出る時、雨にちょっと……」

そこで紗恵は、彼女の隣にある小さなスーツケースに気づいた。胸がひやりとする。何かが起きたのは明らかだったが、今は聞いている場合じゃない。

紗恵は夜子を中へ入れ、濡れた服を脱がせて乾いた部屋着に替えさせ、ベッドへ寝かせる。冷たいタオルで額を冷やし、最後にぬるい水と風邪薬を持ってきた。

「うちにあるの、これだけ。先に飲んで。あとで買ってくるから」

薬を唇へ寄せると、夜子はぎゅっと口を結び、顔を背けた。

「薬……飲まない……」

高熱で朦朧としていても、忘れていない。妊娠している。勝手に飲めない。

「ちょ、あなた……!」

紗恵の声が遠ざかっていく。

耳鳴りだけが鋭く残り、体が泥に沈むみたいに重くなる。ずぶずぶと、深く――。

ぼんやりと、記憶の奥の背中が見えた。

懐かしいのに遠い。近いのに届かない。

思わず呼んでしまう。

「……浅木辰也?」

その人が振り向いた。

高校時代の浅木辰也。十八歳、制服姿。まだ少し青さが残るのに、目元の冷えた気配は今とほとんど変わらない。

夢……?

鼻の奥がつんとして、涙が出そうになった。

言葉にしようとした瞬間、ぐるりと天地が反転する。

場面が、昨夜の会所の個室へ変わった。

鈴木真代が浅木辰也に甘えるように抱きつき、寄り添いながら、誇らしげに夜子を見た。

「桑野夜子。あんたはずっと、私の代わりだっただけ。もう消えなよ」

いや……やめて。

夜子はふらつきながら二歩進み、力尽きて辰也の前に崩れ落ちた。小さな手で彼の膝に縋りつく。

辰也は脚を開き、体を反らし、冷たく見下ろす。

「……行かないで。わ、私……妊娠したの」

「そう。妊娠した!」

溺れかけた人間が最後の藁を掴むように、焦って叫ぶ。

「あなたの子どもなの!」

その言葉で、辰也がようやく反応した。近づいて顎を掴み、口角を嘲るように上げる。

「妊娠?」

「うん……! お腹に、あなたの子が……」

「はっ」

冷笑。乱暴に引き起こされる。

「病院へ行く」

「びょ、病院? なんで……?」

嬉しそうじゃない。むしろ怖い。

「決まってるだろ」眉を寄せて言い放つ。「堕ろすんだ。お前は真代の代わりだ。俺の子を産む資格はない」

堕ろす――?

嫌だ。絶対に嫌。初めての子なのに。

夜子は必死に抵抗し、泣きながら懇願した。

「浅木辰也、お願い……やめて……お願い……!」

「夜子!」

耳元で誰かが叫ぶ。

「夜子!」

さらに近く、はっきりと。

夜子は勢いよく目を開けた。頭が割れるように痛く、視界がぐらぐら揺れる。何度か瞬きして、ようやく分かる。

――紗恵の寝室。

……夢?

さっきの心配そうな呼び声は、辰也の声だった気がした。

「夜子?」

もう一度呼ばれて、幻じゃないと確信する。

ゆっくり首を動かすと、ベッド脇に浅木辰也が座っていた。

眉をひそめたその顔が、夢の中の冷たい表情と重なり、夜子は恐怖で凍りつく。

浅木辰也は、夜子に親しい友人が下津紗恵しかいないことを知っていた。家を出れば、行く場所はここしかない。助理の報告どおりだった。

紗恵は止められず、玄関を開けてしまった。

入った時、夜子は悪夢にうなされていた。表情が異様で、辰也は眉をさらに深く寄せ、布団をはがして抱き上げようとする。

「行くぞ。病院だ」

病院――その言葉で、夜子の神経が弾けた。

「いや! 病院は嫌! 出てって!」

辰也が押さえ込もうとするほど、夜子の恐怖は増し、ありったけの力で暴れる。

振り回した手が、辰也の頬を叩いた。

ぱんっ!

乾いた音が響き、寝室は一気に静まり返った。

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