第5章

部屋は、葉っぱ一枚が落ちる音さえ聞こえそうなほど静かだった。

桑野夜子は、自分に叩かれてわずかに顔を逸らした浅木辰也を見つめる。唇は開きかけたのに、何を言えばいいのかが出てこなかった。

彼は、生まれついての勝ち組だ。小さいころからずっと周囲に持ち上げられ、神棚みたいな場所に祭り上げられてきた人間。平手打ちなんて、夢の中ですら起こりえないはずなのに。

それを、夜子は離婚協議書に署名した直後に、思い切りやった。

まるで――復讐みたいに。

「お前、マジで頭おかしいのか」

浅木辰也の声には、珍しくはっきりした怒りが滲んでいた。

本気で怒っている。

「ごめんなさい!」

夜子は謝った。

なのに表情は妙に堂々としていて、呆けたような怯えが混じっている。さっきの一撃は自分のせいじゃない、とでも言いたげに。

浅木辰也は呆れて笑う。

「俺もどうかしてる。お前の生き死になんて気にするとはな」

「別に、気にしてなんて頼んでない」夜子も、ようやく冷静さを取り戻して言い返す。

「じゃあなんでスーツケース持って、雨の中ふらふら出ていった。人に見られたら、俺が追い出したみたいになるだろ」

夜子は鼻で笑った。

昨夜、あの高嶺の花から一本電話が来た途端、離婚を切り出したくせに。

今さら心配ぶるのは、雨に濡れて何かあったら、桑野家がそれを口実に面倒を起こすのを怖がってるだけだろう。

「安心して。雨に打たれて死んでも、あなたに縋ったりしない。私、そんな安い女じゃない」

浅木辰也の顔が、すっと暗くなる。

さっきまで小動物みたいに怯えていたくせに、今度は刺のある言葉。

本当に腹が立つ。

三年の間、どうして気づかなかった。離婚が決まったから、もう芝居をやめたってことか。

「桑野夜子。ちょっと見ない間に、随分偉くなったな」

その時、下津紗恵がドアの隙間からそっと顔を出した。

「……えっと、入ってもいい?」

ここは本来、自分の寝室のはずなのに。浅木辰也の圧が強すぎて落ち着かない。

夫婦喧嘩に首を突っ込みたくはない。けれど中の声がどんどん大きくなっていって、夜子の体が心配で仕方なかった。だから、意を決して入る。

紗恵の視線が、つい浅木辰也へ流れる。

……いや、ほんと顔は反則レベル。なのに目が冷たくて、近寄るなって空気を全身から放ってる。

半小时前、無言でインターホンを押してきた時は、目を疑った。

親友が結婚して三年。結婚式の日に自分が伴娘をした、それくらいしか接点がない相手だ。

「とりあえず、薬飲も?」

紗恵は、手にしていた温かい風邪薬を差し出した。

けれど匂いを嗅いだ瞬間、夜子の胃がきゅっと縮む。抑えきれない吐き気が一気にせり上がり――。

「うっ……」

夜子はベッドの縁に突っ伏し、胸を押さえてえずいた。

「う、うぅ……!」

あまりの反応に、浅木辰也も平手の件はいったん頭から消えた。

演技には見えない。本当に苦しそうだ。

浅木辰也は手を伸ばし、夜子の背中を軽く叩く。

「もういい。病院へ行く。話はそれからだ」

夜子は咳き込み、目尻に生理的な涙が滲む。それでも顔を上げ、彼を見た。

――本当に、心配してるの?

そう口に出しかけた瞬間。

ピリリリリ!

部屋にけたたましい着信音が響いた。

浅木辰也が眉を寄せてスマホを取り出し、表示された名前を見て逡巡する。それでも結局、通話を取った。

「……何だ」

その間に夜子は俯き、胸の奥に残っていた最後の期待を、自分で踏み潰した。

見えてしまった。

画面の名前――鈴木真代。

浅木辰也が心のいちばんに置いている相手からの電話を、取らないわけがない。

向こうからは、焦った声と、泣き声まじりの息遣いがかすかに漏れる。

数秒聞いた浅木辰也は夜子へ視線を向け、迷いを滲ませた。

だが、その迷いは二秒も続かない。

彼は立ち上がり、背を向けながら言った。

「分かった、真代。今すぐ行く。慌てるな」

通話を切ると、カードケースから銀行カードと名刺を抜き、紗恵へ差し出す。

「下津さん。彼女を頼む。連絡先だ。何かあればすぐ連絡してくれ」

断る暇すら与えず、浅木辰也はそのまま部屋を出ていった。

扉の向こうへ消え、夜子は彼の背中をきちんと見送ることすらできなかった。

夜子は俯き、歯を食いしばる。

紗恵は、あまりにも脆いその姿に胸が痛んだ。夜子を支えながら、怒りを抑えきれず吐き捨てる。

「なんでそこに『真代』がいるわけ!? こんなに辛そうなのに、別の女の電話一本で飛んでくとか……無責任にもほどがある。最低」

夜子がこの結婚にどれだけ必死だったか、紗恵は知っている。

浅木辰也が来た時、ほんの少しだけ期待してしまった。まだ挽回できる余地があるかもしれない、と。

――なのに。

夜子も頷きたかった。

鈴木真代の電話一本で、浅木辰也は簡単に呼び出される。

さっきの、真偽の分からない優しさなんて、羽みたいに軽い。

妊娠を告げたところで何になる。

自分と腹の子を足しても、鈴木真代ひとりにすら勝てない。

浅木辰也の性格なら、子どもの存在を知れば、余計に揉めるだけだ。

前に進くと決めたなら、不安定な材料を増やすべきじゃない。

「……ねえ。結局、どういう状況? 空気が変すぎるんだけど」

夜子は頬が熱く、紗恵の胸に縋りつくように寄りかかる。意識の端がほどけていく中、か細い声で言った。

「紗恵……私、ちょっと……しんどい……」

身体が辛いのか、心が辛いのか。自分でももう分からない。

紗恵が次の言葉を口にする前に、夜子の意識がぷつりと途切れた。

「ちょ、夜子!? ねえ、しっかりして!」

また失神。

二回とも、薬を飲ませる暇すらない。

浅木辰也は妻を置いて別の女のもとへ行った。

けれど紗恵は違う。親友を放っておけるわけがない。

紗恵はスマホを掴み、電話をかける。

「もしもし? こっち、発熱で意識失ってる人がいる。今すぐ来られる?」

「骨科医なのは知ってる! とにかく来て。無理なら救急の先生でも呼んで!」

「……うん、お願い。早くね!」

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