第7章
翌日の昼、浅木辰也の秘書が礼服を届けてきた。
下津紗恵が待ちきれないとばかりに箱へ身を寄せ、蓋が開いた瞬間、ぱっと目を見開く。
「うわ……! これ、フランスの「殿堂入り」デザイナーのラスト作品じゃない? 世界に10着しかないやつ!」
その言葉に、桑野夜子は首をかしげた。
普段、ファッション界隈なんてほとんど気にしていない。そんなに大層なドレスなのだろうか。
「ほら、座って。メイクするよ。今夜いちばん目立つ女にしてあげる!」
下津紗恵は有無を言わせず夜子を自分のドレッサーの前へ引っ張っていった。
午後。
妊娠中の夜子が心配でたまらない下津紗恵は、オークションの宴へ同行することを決めた。
会場に足を踏み入れた途端、少し先でどっと喧騒が起きる。
人に囲まれて現れた女――鈴木真代。
その姿を視界に入れた瞬間、夜子は反射的に眉をひそめた。
真代が着ているのは、夜子とまったく同じ、青いドレス。色も、シルエットも。
ざわり、と空気が揺れる。
「こんな場で被るとか……わざとでしょ?」
「被るのが怖いんじゃない。負けるほうが惨めなだけ」
「奥さんと、昔の手の届かなかった高嶺の花――ってやつ?」
噂は噂を呼び、三人の過去が、面白おかしく掘り返されていく。
鈴木真代の隣にいた男が、わざわざ夜子の前まで歩いてきた。軽蔑の視線で上から下まで舐めるように見て、鼻で嗤う。
「お前が真代と同じドレス? 似合わなすぎ。マジでブサイクだろ」
続けて別の男も近づき、露骨な嫌悪を言葉にする。
「どこで手に入れたんだよ、それ。浅木様が真代のために競り落としたドレスだぞ!」
浅木辰也の友人たちだ。あの夜、娯楽施設の個室にいた面々。
浅木辰也が鈴木真代へ向ける態度は、彼らの間では周知の事実。だから「被った」原因は、いつだって夜子のせいにされる。
「いやー、性格悪いな。そんなに真代が邪魔か?」
下津紗恵が堪えきれず一歩踏み出す。
「そのドレス、明らかに浅木――」
言い切る前に、鈴木真代が柔らかい声で遮った。
「もう、夜子もわざとじゃないよ。みんな、そんなに言わないであげて」
夜子は、急にどうでもよくなった。
鈴木真代が絡むと、いつも自分が「罪人」になる。弁解する権利すら与えられない。
その頃――浅木辰也が控室から出てきた。
一見すると気まぐれな視線。でも実際は、人混みの中でひとつの影を探している。
青いドレスの夜子を見つけた瞬間、彼の目に一瞬だけ、はっとする光が走った。驚きにも、息をのむような色にも見えた。
その気配を感じ取ったのか、夜子もふっと顔を上げる。
――視線が重なる。
重なる直前、浅木辰也は目を逸らした。
同時に、鈴木真代が彼に気づき、スカートの裾を摘まんで小さな蝶のように駆け寄っていく。
「辰也、今日の私、きれい?」
くるり、と一回転して見せた。
浅木辰也はようやく彼女に視線を置き、短く頷く。
「……ああ、きれいだ」
同じドレスを着た二人。だが、彼が口にしたのは片方だけ。
周囲の誰の目にも、選択は明白だった。
胸の奥が詰まって、夜子は小さく息を呑む。そっと下津紗恵の袖を引いた。
「……トイレ、付き合って」
洗面台の鏡の中、青いドレスの自分。
夜子は自嘲気味に口角を上げた。
浅木辰也がどうして自分を呼び出したのか、やっと分かった気がする。最後にもう一度――恥をかかせるためだ。
そこへ、鏡の中に別の影が差す。
鈴木真代が入ってきて、肩を並べるように立った。
口紅を取り出し、何気ない顔で塗り直しながら、言葉だけは刃のように冷たい。
「まさか被るなんてね。これ、辰也が先月ヨーロッパのオークションで落としてくれたの。帰国祝いって。……何年経っても、私のこと、ちゃんと大事にしてくれるんだよね」
夜子は何も言わない。ただ唇を強く結び、鏡越しに真代を見つめる。
ふと気づく。
角度によっては、顔立ちが少し似ている。……だからこそ、なおさら胸が苦しい。
挑発に返事がないのが気に入らなかったのか、真代は夜子へ身を寄せ、わざとらしい心配顔を作った。
「ねえ。結婚して3年なのに、どうして子どもがいないの? もしかして……浅木辰也の心に、忘れられない人がいるから?」
その瞬間。
個室の扉が勢いよく開く。
「夫婦が子ども作るかどうか、あんたに関係ある? 自分のことだけ気にしてなよ」
下津紗恵が、見下すように睨みつけた。
鈴木真代は口紅をしまい、平然と笑う。
「ほんとに、私と話す気ないの?」
今夜、夜子は彼女に一言も返していない。その「平気なふり」が、真代には癇に障ったのだ。
だから、わざわざここまで追ってきた。
「話すことなんてない」
夜子の声は低く、淡々としていた。
鈴木真代は拳を握り、笑みがわずかにひび割れる。それでも無理やり整え、吐き捨てるように言った。
「ふん。見てなよ。時間が全部、証明するから」
すれ違いざま、わざと夜子の肩に体当たりする。
「――っ!」
不意を突かれた夜子の背中が、どん、と洗面台にぶつかった。
「何やってんのよ!」
下津紗恵が怒鳴り、追いかけようとする。だが夜子が袖を掴んで止めた。
振り返った下津紗恵は、夜子の顔色が一気に抜けていることに気づく。
夜子は眉を歪め、下腹に手を当てた。
「……お腹、ちょっと……変」
「当たったせい? 大丈夫!?」
下津紗恵は慌てて支え、鞄から医師に出された薬を取り出す。
夜子は青白いまま、弱々しく笑った。
「ねえ、紗恵……笑えるよね」
視線を落として、お腹をそっと撫でる。
「分かった日に父親に捨てられて……今度は父親の昔の女に押されて……この子、ほんと運がない」
そのとき。
背後から、低い男の声が落ちた。
「……子ども?」
下津紗恵は心臓が止まりそうになった。手の中の薬瓶がするりと滑り落ち、ころころと転がってトイレの入口へ向かう。
二人が振り向く。
そこにいたのは、浅木辰也だった。
薬瓶が彼の革靴に軽く当たり、かつん、と小さな音を立てる。
夜子は息をすることすら忘れたまま、浅木辰也が屈んで薬瓶を拾い上げるのを見つめる。
ラベルには医師の指示と注意事項。見れば分かる――安胎の薬。
夜子の脳裏に、さっきの鈴木真代の言葉が蘇る。
結婚して3年。浅木辰也は一度も子どもの話をしなかった。
それは――まだ、鈴木真代を愛しているから?
もし妊娠を知られたら。
彼は、この子を残すだろうか。
