第3章
青美の視点
家に帰ってきて間もなく、玄関の鍵が回る音がした。
義樹が慌てた様子で入ってきて、室内を見回す。そして私を見つけるや否や、駆け寄ってきてきつく抱きしめた。
「どこに行ってたんだ? 3回も電話したんだぞ。医者は君がもう帰ったって言うし、ずっと探してたんだ。何かあったんじゃないかって、本当に生きた心地がしなかった」
見事な演技だこと。
「大丈夫よ」私は彼の背中を軽くポンポンと叩いた。
「帰り道で早村さんに会って、少し話し込んじゃったの。スマホをマナーモードにしたままで、気づかなくて」
彼は私を離し、両手で私の両頬を包み込んだ。
「もう二度と、あんなふうに俺を驚かせないでくれ」
「ごめんなさい。折り返し電話するべきだったわね」
「いいんだ」彼は私の額にキスをした。
「君が無事なら、それでいい」
私たちはソファに腰を下ろした。彼は私の手を握りしめている。まるで、私がふいに消えてしまうのを恐れるかのように。
「実はね……」私は少し間を置いた。
「早村さんが、ベンチャーファンドを立ち上げようとしているの。女性向けのテクノロジー分野なんだけど。私にも出資しないかって」
彼の目がパッと輝いた。
「それはいい! 君もようやく再出発できるんだね」
「やってみたいとは思ってる。でも、初期資金が少し必要なの。50万ドルほど」
短い沈黙。私は彼の顔を見つめ、彼が躊躇するのを、疑問を口にするのを待った。
だが、何もなかった。
彼はスマホを取り出した。
「口座番号を教えて。今すぐ振り込むよ」
「具体的な事業内容とか、聞かなくていいの?」
「君を信じてるから」彼の親指が画面の上を滑っていく。
「俺のものは君のものだ。君がやりたいことはなんだって応援するよ」
送金完了の通知音が鳴った。
あっけないものだ。50万ドル。瞬き一つせずに。
この数年間の慰謝料代わりといったところね。
翌朝、義樹は会社へ出かけていった。
私はダイニングテーブルにつき、ノートパソコンを開いた。集めておいた証拠、スクリーンショット、録音データをすべて整理し、東京でトップクラスの離婚弁護士事務所へと送信する。
添えたメッセージは一言だけだ。
『私の要望はただ一つ。一刻も早く離婚すること。それだけです』
パソコンを閉じた途端、スマホが震えた。見知らぬ番号からメッセージが届いている。
『あなたが青美?』
一瞬呆気に取られたが、すぐに合点がいった。どうやらこれが、あの七海という女らしい。
『何の用?』
次の瞬間、メッセージが次々とポップアップした。
『彼、言ってたわ。あなたはベッドで退屈だって』
『あなたと一緒にいると、生ける屍みたいだって』
『私、彼の子を妊娠してるの。知ってた?』
『IPOが終わったらあなたと離婚して、私と一緒になるんだって』
『私が一言言えば、彼はあなたを放り出して私のところに来るわ』
私は静かにその文字の羅列を見つめた。怒りは湧かない。悲しみもない。ただただ、凪いだ心。そして私は、スクリーンショットを撮り始めた。
5分も経たないうちに、義樹から電話がかかってきた。
「青美、本当にごめん。今夜、会社で緊急のプロジェクトが入って、かなり遅くまで残業になりそうなんだ。帰れないかもしれない。夕飯は先に済ませて、俺のことは待たなくていいからね」
「わかったわ。お仕事頑張ってね」
電話を切る。先ほどのスクリーンショットをすべて弁護士に転送した。それから、七海へ一言だけ返信した。
『そんなゴミ、あなたにくれてやるわ』
そして即座にその番号をブロックした。
夜の帳が下りる。リビングには私一人だけだ。
義樹は帰ってこない。
階段を上がり、寝室のドアを押し開ける。
ナイトテーブルの引き出しには、あのラブレターがまだ残っている。7年前に彼が綴った言葉。
『鈴川青美、君を一生愛し抜く』
『君は俺のすべてだ』
『君なしでは生きていけない』
私はそれらをすべて取り出した。一通、また一通と細かく引き裂き、ゴミ箱へと放り捨てる。
写真立てに飾られたツーショット。結婚式の写真。バカンスの時のスナップ。彼がくれた誕生日プレゼント。記念日の贈り物。
すべて捨てた。
私は小さなスーツケースを一つだけ引っ張り出した。数着の着替え、パスポート、身分証、そして母が遺してくれた真珠のネックレスを詰め込む。
これだけだ。7年間の結婚生活で残ったものは、たったこれだけ。
ジッパーを閉め、スーツケースをクローゼットの一番奥へと押し込んだ。
それからベッドに横たわる。私たちが7年間、共に眠ってきたこのベッドに。
今この瞬間、義樹はどこにいるのだろう? どこかのホテルの部屋? それとも七海のマンション?
彼の腕は彼女を抱きしめ、彼の唇は彼女にキスをしている。かつて私に囁いたのと同じ甘い言葉を、彼女に向かって紡いでいるのだ。
嘘。全部、嘘っぱち。
私は自分の胸にそっと手を当てた。そこにあるべきものは、とうに死に絶えている。
愛。信頼。この結婚に対するいかなる未練や期待も。
すべて死んだ。
そして私は、ついに自由になったのだ。私は消える。完全に姿を消してやる。
やがて義樹は気づくことになる。ベッドがもぬけの殻であることに。クローゼットが空っぽであることに。自分の生活が、空虚そのものになってしまったことに。
その時になって初めて、彼は自分が何を失ったのかを思い知るのだ。
だが、もう遅すぎる。
