第4章
【青美視点】
いよいよ、今日が最後の一日だ。
私はキッチンに立ち、彼が帰ってこないことを祈っていた。いっそ七海のもとに居続けてくれれば、私もスムーズにこの家を去ることができるのに。
だが無情にも、空が白み始めた頃、義樹はドアを開けて入ってきた。髪は少し乱れ、スーツには皺が寄っている。私に気づくと、彼は笑みを浮かべ、背後から私の腰に腕を回した。
「おはよう、愛しい人」
彼の体から香水の匂いが漂ってきた。私のじゃない。甘ったるくて、若々しい香り。
私は悟られないようにそっと身を引き、振り返って彼を見つめた。
「少し眠ったほうがいいわ。とても疲れているみたいだから」
「昨夜は会社で寝たんだ。朝食も済ませたよ」
彼は目をこすりながら言う。
「あとでまた会社に戻って、いくつか書類を処理しなきゃならない。ただ、君に伝えておこうと思って戻ってきたんだ――夜はあのフレンチレストランを予約したから、一緒にディナーを楽しもう」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見返した。この顔を心に刻む。この瞬間を記憶に留める。
「それじゃあ、また後で」
彼は頷き、私の額に軽くキスを落とした。
「また今夜」
再びドアが閉まる。
私はその場に立ち尽くし、ふっと微笑んだ。
さようなら、もう二度と会うことはないわ、義樹。
ダイニングテーブルへ歩み寄り、引き出しから昨日弁護士から送られてきた離婚協議書を取り出す。それをテーブルの中央に置き、さらに一つの封筒を添えた――中にはすべての証拠が詰まっている。写真。チャットのスクリーンショット。送金履歴。
指輪を外し、それも傍らにそっと置いた。
あらかじめまとめておいたスーツケースを引き、階段を下りる。最後に、この家をぐるりと見渡した。リビングにはまだ、私たちの結婚式の写真が飾られている。純白のウェディングドレスを身に纏い、満面の笑みを浮かべるあの少女のことを、私はもう知らない。
家の外では、すでに一台の車が路肩に停まって待っていた。
スーツケースを引きずりながら外へ出る。最後にもう一度だけ、振り返った。
七年前、初めてこの家に足を踏み入れた時、ここが私の帰る場所なのだと信じていた。でも今ならわかる。家とは決して、単なる場所を指す言葉ではないのだと。そして私はこの場所で、本当の意味での家を手に入れたことなど一度もなかったのだ。
車のドアが閉まる。エンジンが始動する。
車窓の向こうで、マンハッタンの街並みがぼやけて流れていく。涙は出なかった。悲しみもなかった。
あるのはただ、解放感だけ。
――
丸一日、義樹はずっと違和感を拭えずにいた。
デスクの前に座り、モニターに羅列された数字を眺めていても、まったく頭に入ってこない。向かい側で投資家が何かを語っているが、意識はどこかへ彷徨い続けていた。まるで何かとても大切なものが、指の隙間からこぼれ落ちていくような感覚。なのに、それを掴み止めることができない。
「上野さん?」
彼は顔を上げた。投資家が怪訝そうにこちらを見つめている。
「ああ、すみません。今、何と?」
「IPOのタイムスケジュールについてです。三ヶ月で十分とお考えですか?」
「ええ。三ヶ月あれば十分です」
ようやく会議が終わった。時計に目をやる。午後七時。
彼は車を走らせてレストランへ急いだ。ウェイターに案内され、予約していた席へと着く。窓際のテーブル。青美のお気に入りの席だ。
時間が少しずつ過ぎていくが、青美は一向に姿を見せなかった。
彼女は決して遅刻しない。これまで一度だってそんなことはなかった。まさか、何かの事件に巻き込まれたのか?
スマホを取り出し、彼女の番号に発信する。
『おかけになった電話番号は――』
着信拒否。
彼は呆然とした。
着信拒否? そんな馬鹿な。
すぐに秘書の番号を呼び出す。
「今すぐ私の家へ向かえ! 青美が家にいるか確認しろ! 彼女に何か起きていないか調べるんだ!」
彼はレストランを飛び出し、車に乗り込んだ。アクセルをベタ踏みする。
まだ道中を急いでいる最中、秘書から着信があった。
「社長……青美様が……その……見当たりません」
義樹の頭の中で、ドクンと激しい音が鳴り響いた。本能のままにアクセルをさらに踏み込む。車は夜の街を猛スピードで駆け抜けた。
あり得ない。そんなはずはない。彼女が出て行くわけがない。絶対に。
家の前に車を急停車させ、彼は中へと転がり込んだ。
リビングには、青ざめた顔をした秘書が立ち尽くしており、手には一枚の紙と封筒が握られていた。彼は駆け寄り、それをひったくるように奪い取る。
紙に記された『離婚協議書』という大きな文字が、容赦なく彼の目を刺した。
嘘だ。嘘だろ。嘘だと言ってくれ。
封筒を乱暴に引き裂くと、中から七海との生々しい写真の数々や、送金の履歴が床一面にばら撒かれた。
そして、手書きのメモがふわりと舞い落ちる。
『義樹へ。実はあの夜、あなたが誰かと話しているのを聞いていたの。今まで言っていなかったけれど、私はパリに一年間住んでいたことがあるわ。あなたが話していたこと、全部わかっているの。je comprends tout』
義樹はその場に崩れ落ちた。
周囲に散らばった写真。その一枚一枚が、鋭い刃となって彼の身を切り裂いていく。
彼女は知っていたのだ。ずっと前から、すべてを知っていた。ザ・リッツ・カールトンでのあの夜、彼は彼女が言葉を理解できないと高を括っていた。『こんにちは』すらわからないのかと、彼女を嘲笑ってさえいたのに。
彼女は一言一句、すべてを理解していた。それなのに何も言わず、ただ微笑み続けていた。完璧な妻を演じ続け、彼に優しく接し続けていたのだ。
そして、この家を去った。
義樹が顔を上げて周囲を見渡すと、家の中はすっかり空虚になっていた。彼女の私物は跡形もなく消え去り、残されているのは彼女が不要だと見なしたものと、彼自身の持ち物だけ。
ダイニングテーブルの上には、あの指輪が静かに横たわっている。彼女は一瞥もくれず、それを置いていったのだ。
彼は震える手で指輪を拾い上げ、傍らに立つ秘書を睨みつけた。その声は、ひどく掠れていた。
「彼女を探し出せ。いくら金がかかっても構わない。どんな手段を使ってもいい。這ってでも彼女を見つけ出せ」
