第3章

 月曜の朝、私は書類を提出するために学校へ向かった。

 管理棟に着いた瞬間、柱に寄りかかって待っている蓮の姿が目に入った。

 私は歩みを緩めた。

 なんて殊勝なこと。私が逃げ出すのを恐れているわけね。

「紫苑」

 彼は近寄ってきた。その顔には完璧なまでの心配色が張り付いている。

「お腹の具合はどう? 週末に薬を届けようとしたんだけど、家政婦さんが『家を売る』って言ってたぞ?」

 私は彼を通り過ぎ、入り口へと向かう。

「どうせ出ていくもの。必要ないわ」

 彼は眉をひそめてついてくる。

「どこに越したんだ? なんで教えてくれなかった?」

「時間がなかったの」

「新しい住所を教えろよ。俺が――」

「必要ない」

 一瞬呆気にとられたようだったが、彼はすぐに立ち直り、口調を軽く切り替えた。

「まあいいや。どうせ同じ学校になるんだし、急ぐこともないか。ところで、俺は先週書類出しといたから。お前が最後だぞ。急げよ」

 彼の願書は、まだ私の部屋のゴミ箱の中にある。

 本当に、演技に余念がないこと。

 私は足を止め、彼の方を振り返った。

 十三年。去るにしても、まずは答えを聞く権利があるはずだ。

「蓮、この数年間ずっと……」

 彼は片眉を上げ、続きを待っている。

 私は彼の瞳を見つめ、そこに少しでも真実がないか探そうとした。

「あなたは一度でも――」

 廊下に足音が響き渡り、私の言葉を遮った。

 あの連中だ。以前、蓮を追い詰めていたグループ。

 リーダー格の男が、薄ら笑いを浮かべて真っ直ぐ私に向かってくる。

「西園寺さん、まだいたのか?」

 彼が立ちはだかる。

「本気でこんなクズと一緒になるつもりかよ?」

 私は蓮をちらりと見た。

 彼の顔から血の気が引く。半歩後ずさり、怯えたふりをした。

 面白い。

 前回彼らが蓮を囲んだのはロッカールームだった。観客はいなかった。今回はわざわざ管理棟の入り口を選んでいる。人通りが多い場所だ。

 しかも第一声は蓮への侮辱ではなく、私に去れという警告だった。

「お前、馬鹿なのか?」

 もう一人が顔を寄せてくる。

「親父は詐欺師、母親は売春婦。そんなゴミのお守りをするつもりか?」

 私は答えなかった。ただ立ち尽くし、その茶番劇を眺めていた。

 私が動かないと見ると、リーダー格は蓮に向き直った。

「二宮、情けねえ野郎だ。女の後ろに隠れる男があるかよ」

 蓮は蒼白になり、押し黙っている。

 名演技だこと。

「やめて!」

 人垣の後ろから、金切り声が響いた。

 エリだ。

 彼女は駆け寄ると、蓮の前に立ちはだかり、両手を広げた。声は震えていたが、音量は大きかった。

「彼を放っておいてよ!」

 これは予想外ね。

 彼女は台本にはなかったはずだけど?

 男たちは一瞬たじろいだが、すぐに演技に戻った。

「おっ、誰だこいつ? 新しい代用品か?」

「あの奨学生だろ? 愛人の分際で玉の輿狙いってか」

「また別の金目当て女かよ。蓮と一緒にいる奴はどいつもこいつもゴミだな」

 エリが目を赤くして私の方を向いた。

「紫苑! なんで突っ立ってるのよ? 蓮がいじめられてるのが見えないの!?」

 私は彼女を見つめ、何も言わなかった。

「いつも彼を守ってたじゃない!」

 彼女の声が甲高く裏返る。

「どうしちゃったの? 心がないの?」

 笑える話だ。この女は、私がこれまでどれだけ蓮のために矢面に立ってきたか知っているのか? もうどうでもいいけれど。

「へえ、勇敢なこった」

 リーダー格がエリに近づき、値踏みするように彼女を見た。

「じゃあ、こいつの分もお前が引き受けろよ」

 彼は彼女を突き飛ばした。

 エリはよろめき、飾り棚の角にこめかみを強打した。鮮血が顔を伝い落ちる。

「エリ!」

 蓮が彼女を支えようと飛び出した。充血した目で私を見上げ、最初に私に向かって怒鳴りつけた。

「紫苑、何ぼけっと突っ立ってんだよ! 彼女が血を流してるだろッ!」

 私は彼が取り乱す様を冷ややかに見ていた。

 彼は男たちの方を向き、声を落とした。

「どういうことだ? 話が違うだろ?」

 リーダー格は肩をすくめた。

「あのバカ女が飛び込んできたんだ、俺のせいじゃねえよ」

 彼は手を上げ、仲間に合図を送った。彼らは手を緩め、後ずさりし始めた。

 やっぱりね。

 エリは計画外だったのだ。彼女は勝手に自分の出番を作った。

 自業自得だわ。

 人垣が散っていく。蓮は床にしゃがみ込み、エリを抱きかかえていた。誰かが保健室の先生を呼んでいる。

 私は前へと歩き出した。

 蓮の横を通り過ぎる際、私の足が滑った。

 うっかり、彼の手を踏んでしまった。

「クソッ!」

 彼は手を引っ込め、私を睨み上げた。

「ごめんなさい」と私は言った。

「見えなかったわ」

 そのままもう二歩進む。彼を避けようとして、今度は足が彼のすねに引っかかった。彼は前のめりに倒れ、顔面から床に突っ込んだ。

 私は振り返ることなく、そのまま歩き続けた。

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