第3章

 中からは、毛むくじゃらの大きな蜘蛛が這い出してきた。

 優樹は小刻みに震え、顔からはすっと血の気が引いていた。恐怖に顔を歪め、部屋の隅へと逃げ込む。まるでかつて蜘蛛に這い回られた時のトラウマが、フラッシュバックしたかのような拒絶反応だ。

 彼女の掌には赤い腫れ跡が浮かんでいる——蜘蛛に噛まれたのだ。

 両親と直人がすぐに駆け寄る。

 直人は素早くナプキンで蜘蛛を払い落とすと、靴底で容赦なく踏み潰した。

「パーティーの招待客はお前の友人か、私が選んだ家柄の釣り合う貴族の子息たちばかりだ。一体誰がこんな悪趣味な悪戯をするというんだ?」宗一郎が声を荒らげる。

 美紀子の視線が部屋を彷徨い、最後にあけられたギフトボックスへと吸い寄せられた。

 内張りに上質なベルベットがあしらわれたその箱の中には、一枚のカードが残されている。

 彼女はカードを開いた。そこには印字された文字が一文だけ。

『妹の優樹へ』

 美紀子の表情が一変する。

「その箱……友佳が用意したものなの?」美紀子が優樹に問い質す。

 優樹は今にも泣き出しそうな顔を作った。

「お母様、お姉様を責めないで——」

「ふざけるな!」宗一郎が怒号で遮った。

 その声が大広間に響き渡る。

「優樹は八歳の時、蜘蛛だらけの地下室に一晩中閉じ込められて以来、深刻な蜘蛛恐怖症を患っているんだぞ!」

 彼の拳がドン、とテーブルに叩きつけられた。

「家族全員が知っていることだ。屋敷の中には蜘蛛を連想させるものなど一切置かないようにしてきたというのに」

 優樹が震える声で告げる。

「プレゼントは昨日の夜、お姉様の部屋でいただいたんです……でも、お姉様を悪く言わないでください」

 声は尻すぼみになり、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 瞬間、宗一郎と直人の顔色が失望と怒りに染め上げられる。

「やはりそうか!」宗一郎が冷たく言い放つ。

「どうりでなかなか帰ってこないわけだ。あいつは優樹を傷つける計画を練っていたんだな!」

 直人は拳を固く握りしめた。

「俺はどうして、あんなにも性根の腐った悪辣な妹を持ってしまったんだ?」

「もういいわ! 言い争っている場合じゃない、早く優樹に鎮静剤を!」美紀子がその場を収めた。

 宗一郎がギフトボックスを蹴り飛ばし、怒りに任せてテーブルを叩く。

 私は中空に漂いながら、無残に転がったその箱を見下ろしていた。

 あれは優樹が私の部屋から盗み出したものだ。

 私は中に蜘蛛など入れていない。ただ、彼女のために用意したネックレスが入っていただけなのに。

「納戸へ行って薬を探してくる」彼らが立ち去る前、直人がそう言った。

 優樹の目が泳ぐ。彼女は咄嗟に直人の腕を掴んだ。

「行かないで。薬はもう切らしているの。先に病院へ連れて行って。手が……すごく痛いの……」

 もしあの時、直人があと数歩、裏庭の方へ進んでいたら。納戸から漂う濃密な血の匂いに気づいていただろう。

 けれど、彼は気づかなかった。

 優樹の苦しげな呻き声に急かされ、家族は慌ただしく去っていった。がらんとしたホールには、私の魂だけが取り残された。

 何もしていないと叫びたかった。けれど、もう声は出ない。

 それに分かっている。たとえ声が届いたとしても、彼らが私を信じることなど永遠にないのだと。

 あぁ、もういい。

 物音を聞きつけた村上が、惨状を片付けるために現れた。

 彼女は蹴り飛ばされた箱を拾い上げ、小さく溜息をつく。

「友佳お嬢様」独り言のように彼女は呟いた。

「貴女がこんなことをなさる方ではないと、私は存じております」

「あの人たちは、いつになったら真実を見てくださるのでしょうか」

 その言葉が鍵となり、記憶の奥底にある扉が開かれた。

 あれは、私の成人式の日のことだ。

「友佳、今日は素晴らしい出来だったよ」一族の年長者が私に声をかけてくれた。

 私は成人式で事業計画のプレゼンテーションを行い、その場にいた大半の参列者から称賛を得たばかりだった。

 私は宗一郎を見た。その瞳に誇らしさが宿ることを期待して。

 けれど彼は、冷淡に頷いただけだった。

「まあ、悪くはないな」それだけ言い捨てると、踵を返して去ってしまった。

 その瞬間、優樹がステージに上がり、ピアノの演奏を始めた。

 優雅な旋律がホールを満たし、人々の関心は一瞬にして彼女へと奪われる。

「優樹ちゃんは本当に才能豊かだ!」

「宗一郎、こんな娘を持って果報者だな」

 宗一郎の顔に、ようやく笑みが浮かんだ。それは私には一度も向けられたことのない、慈愛と誇りに満ちた表情だった。

 演奏が終わると、家族は優樹を囲み、有力者たちへの挨拶回りへと連れて行った。

 私は部屋の隅に立ち尽くし、ただその光景を眺めていた。

 私の成人式は、優樹のための独演会へと変わった。

 けれど分かっていた。そんな偏愛は、もっとずっと前から始まっていたのだと。

 あの日——私の高校の卒業式の日だ。

 両親は帰ってきて祝ってくれると約束していた。

 私はケーキを用意して、家でずっと待ち続けた。

「いつ着くの? ケーキが溶けちゃうよ……」何度も何度も電話で催促をした。

 宗一郎は美紀子を連れて妊婦健診に行っていたのだ。

 時間を急ぐあまり、雨の夜道をスピード違反で飛ばし——そして事故は起きた。

 美紀子は負傷し、優樹は早産となった。

 それ以来、美紀子は体の弱い優樹を見るたびに、あの雨の夜を思い出すようになったのだ。

 私はあの事故の『元凶』となった。

 私が急かさなければ、優樹は健康に、満期で生まれてくるはずだったのだと。

 その日から、私は両親の愛を失った。

 代わりに優樹が、全ての償いを受け取ることになった。

 全ての愛、全ての関心、全ての赦し。

 それらは全部、彼女のものだ。

 いつか忍耐強く待っていれば、彼らが私を見て、赦してくれる日が来ると信じていた。

 けれど今、ようやく理解した。

 この家において、私は最初から——どうでもいい存在だったのだ。

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