第4章
私の魂は、彼らに付き従うように病院へと向かった。
それから間もなくのことだ。英介が血相を変えて救急処置室に飛び込んできた時、私はすでに部屋の隅でふわりと浮かんでいた。
彼は一目散に優樹のもとへ駆け寄ると、その手を取り、赤く腫れ上がった掌を焦燥しきった様子で確かめる。
「どうしてこんなことに? パーティーは終わったばかりだろ?」
彼の声は震えていた。
「……医者は何と言ってるんだ?」
優樹は声を詰まらせ、潤んだ瞳を彼に向ける。
「英介、どうしてここへ……。お願い、お姉ちゃんを怒らないであげて……」
彼女の頬を、涙がひと筋伝い落ちる。
「きっと、私を驚かせようとしただけなの。あの蜘蛛だって、お姉ちゃんが入れたわけじゃないと思うわ……」
彼女がかばうような口ぶりをすればするほど、英介の表情は険しく沈んでいく。
「友佳はどこだ?」
彼は拳を固く握りしめた。
「あいつ、今どこに隠れてやがる?」
「安心しろ。俺が必ず、きっちり灸を据えてやるからな!」
私はただ宙に浮かび、その光景を眺めていた。
脳裏に蘇るのは、婚約したあの日のこと。英介は片膝をつき、指輪を捧げ持っていた。
『友佳。君を永遠に愛し、守り抜くと誓うよ』
あの時の眼差しは、あまりにも真摯だった。だから私は、心の底から信じてしまったのだ。
英介は病院の廊下へ出ると、私の携帯を鳴らした。
もちろん、誰も出るはずがない。
彼は留守番電話にメッセージを吹き込んだ。
「いいか、友佳。今どこで何をしてるか知らないが、今回は流石に度が過ぎてるぞ。優樹が一番苦手なものを使って、あんな風に怯えさせるなんて」
彼の声は怒りに満ちていた。
「本来なら、お前の受賞祝いを届けに行くつもりだったんだ。我が家に伝わるネックレスをな。だが今の、あんなことをするお前にそれを受け取る資格はない」
一瞬の沈黙。
「優樹が無事であることを祈るんだな。もし何かあれば、俺たちの婚約は無かったことにさせてもらう!」
その音声を聞きながら、私の心は摩耗しきり、何の感情も湧いてこなかった。
……もっと早く、気づくべきだったのだ。
ビジネスの場でも、英介は優樹の華やかな社交ぶりに目を奪われ、感心しきっていた。
私の提案が無視された時も、彼はただ「君は堅苦しすぎる」と言い捨てただけ。
デート中も、彼は心ここにあらずでスマホばかり気にしていた。
「仕事の対応があるんだ」
そう言っていたけれど、後になってわかった。彼は優樹とメッセージをやり取りしていたのだ。
その態度を問いただすたび、返ってくる言葉はいつも同じ。
「言いがかりはやめてくれ。優樹は君の妹だろう? 俺が彼女を気にかけて、何が悪いんだ?」
あんなにも、愛していたのに。
彼の存在は、神様からの贈り物だと思っていた。
彼は私のもの、私だけのものになってくれるのだと、そう思い込んでいた。
午前三時。両親と直人が、疲労を滲ませて屋敷へと戻ってきた。
私の魂は、リビングの片隅に漂っている。
美紀子がふぅ、と溜め息をついた。
「英介さんと優樹、とてもお似合いだったわねぇ。病院であの子を気遣う姿、本当に甲斐甲斐しかったわ」
私の魂が凍りついた。
直人が相槌を打つ。
「ああ、英介さんは有能だし、僕も優樹は彼を好いているように見えたよ。二人が結婚すれば完璧じゃないか?」
宗一郎が、鬱陶しそうに手を振った。
「馬鹿を言うな。英介の家柄では、我らが大事な優樹には釣り合わんよ。やはり奴は友佳と結婚させるべきだ。どうせ奴は、今後も優樹を甘やかし続けるだろう。それなら全員が満足できる」
全員が満足できる。
その言葉を聞いて、私は苦笑する力さえ失ってしまった。
結局、彼らの目には、私の結婚などただの道具にしか映っていなかったのだ。
英介をこの家に縛りつけ、彼に優樹の世話を続けさせるための、都合の良い鎖として。
彼らがリビングへ足を踏み入れた直後、美紀子が不意に足を止め、ハンカチで口元を覆った。
「何かしら、この異様な臭いは……」
宗一郎が忌々しげに言う。
「また裏庭の水道管でも破裂したか? 今日はどうしてこう、面白くないことばかり続くんだ」
直人が訝しげに立ち上がった。
「僕が裏庭を見てくるよ。単なるネズミの死骸かもしれないし」
裏庭へ近づくにつれ、鉄錆のような血の匂いと、鼻をつく腐敗臭が濃くなっていく。
「……この臭い、ただ事じゃないな」
直人は眉をひそめた。
悪臭の発生源を辿り、彼は物置小屋の扉に手をかける。
ギィ、と扉が開いた瞬間、強烈な血臭と死臭が一気に溢れ出した。
窓から差し込む冷たい月光が、床に広がる黒褐色の染みを照らし出す。
その血の海の中心に、私の亡骸が横たわっていた。肌は蝋のように白く、瞳はうつろに半ば開かれている。
直人の喉の奥で、声が引きつった。
「…………友佳……?」
