第1章

 婚約者のダニエルは、いつも婚約を盾にして私を脅してくる。

 義理の妹であるアイビーのために、全てを犠牲にしろと。

 両親は、私のバレエスクールの入学枠をネタに脅迫してくる。

 それをアイビーに譲れと。

 以前の私なら、泣き叫んで、抵抗しただろう。

 だが、ダニエルが百回目の脅し文句を口にした時――婚約破棄をチラつかせ、私の腎臓をアイビーに寄越せと要求してきた時、私は承諾した。

 周囲は口を揃えて言う。私がようやく大人になって、分別がついたのだと。

 彼らは知らないのだ。

――私がもうすぐ死ぬということを。

 ダニエルから百回目の婚約破棄を突きつけられたその時、私は手の中にある癌の診断書を見つめていた。

「イヴリン、アイビーの腎不全が深刻な状態なんだ。医者はすぐにでも移植手術が必要だと言ってる。このままじゃ命に関わるんだ」

「適合率は完璧らしい。君がドナーになると言うなら、すぐに手術の手配をする。だが、もし同意しないなら……」

「――婚約は解消だ。アイビーにはもう時間が残されていない。俺は彼女と結婚したいんだ、法的に彼女を支えてやりたいから」

 私は静かに耳を傾けていたが、その瞳に宿る冷徹さと、それが当然だと言わんばかりの態度に心が凍りつくようだった。

 この手の脅しは聞き飽きた。アイビーの腎不全が発覚して以来、両親とダニエルは入れ替わり立ち替わり私を説得しに来るのだ。

 両親はバレエスクールの権利を盾にする。それは十年もの血の滲むような努力の末に掴み取った、夢への切符だった。

 ダニエルはもっと残酷だ。彼が婚約破棄をチラつかせるのは、これで九十九回目になる。

 理由はいつだってアイビーだ。彼女への輸血を少しでも躊躇った時、彼女が私の婚約指輪を欲しがって私が拒んだ時、宴会の席で酔った彼女の送迎をダニエルがするのを黙認した時……。

「アイビーはもう限界なんだ! 腎臓を一つあげるだけで彼女は助かる。どうして拒むんだ?」

 あの頃はまだ自分が癌に侵されているとは知らず、ただ日に日に衰えていく体調を理由に断った。

 拒絶した途端、誰もが私を軽蔑の眼差しで見た。身勝手で、冷酷で、物分かりが悪いと罵った。

 母は言った。

「あんたはお姉ちゃんでしょう。妹の面倒を見る義務があるわ。アイビーを助けないなら、バレエなんて諦めなさい! あの子を引き取った時、ちゃんと面倒を見るって約束したじゃない。そんな身勝手な子に育てた覚えはないわ」

 父も追撃した。

「その通りだ! アイビーは幼い頃からお前を羨んでいた。生まれつき体が弱くて、何一つお前に勝てなかったんだぞ。それなのに、こんな些細な願いも聞いてやれないのか? お前には失望したよ。アイビーを見捨てるなら、親子の縁を切るつもりでいてくれ!」

 今思い出しても胸が痛む言葉たちだが、もうどうでもいい。

 どうせ私は死ぬのだから。

 視線を診断書に落とす。自宅で死ぬか、手術台の上で死ぬか。そこに違いなどあるだろうか。

 どうせ、誰も私のことなど気にかけていない。

 ダニエルが眉をひそめ、さらに追い討ちをかけようとしたのを遮った。

「いいわ、提供する」

 彼は呆気にとられ、次いで顔を上げて私を見た。驚きと歓喜がない交ぜになった表情だった。

「本当か? よかった! これでアイビーは助かる!」

 彼は飛び上がらんばかりに喜び、両親へボイスメッセージを吹き込み始めた。

「同意してくれたよ! ああ、書類にサインさせる。すぐに手術の手配を!」

 その興奮した様子を眺めながら、私は自嘲気味に口元を歪めた。

 左手の薬指に視線を落とす。三年前、ダニエルが私のために選んでくれた婚約指輪だ。彼は言った。この指輪は二人の永遠の証だと。

 プロポーズの日、片膝をついて涙ぐんでいた彼の姿が蘇る。

「イヴリン、君に家をあげる。僕たち二人だけの温かい家を」

 あの時、私は本気で彼を信じていた。

 私は指輪を静かに回し、躊躇なく引き抜いた。

 戻ってきたダニエルは、私が彼の鞄に何かを入れていることに気づいた。

 彼は怪訝な顔をする。

「何をしてるんだ?」

 私は微笑んだ。

「なんでもないわ」

 ダニエルの目に疑念が走る。

 素早く鞄の中身を確認し、そこに婚約指輪を見つけると、彼の顔色が一変した。

 彼は私の手首を掴み、指輪を強引にはめ直そうとする。

「冗談のつもりだったんだ。婚約解消なんてするわけないだろう」

 私はそっと手を引き抜いた。無表情のまま。

 指輪は彼の掌に残されたままだ。

 スマホが鳴った。父からだ。

「イヴリン! 帰ってきなさい。手術の日程について話し合うぞ」

「わかったわ」

 短く答え、通話を切る。

 帰りの車中、ハンドルを握るのはダニエルだ。

 赤信号で停車した際、彼が私の手を握りしめてきた。

「顔色が悪いな。帰ったらゆっくり休むといい。術前検査の手配は済ませておいたから。手術に耐えられる体か確認しないとな」

 心配しているような口ぶりだが、透けて見えるのは下心だ。アイビーに移植する貴重な腎臓を万全の状態に保ちたいだけなのだ。

 私の体に異常があれば、アイビーが望むものを得られなくなるからだ。

 窓の外を流れる街の灯りを眺める。私の時間は、もう残り少ない。

 玄関のドアを開けるなり、母の感極まった泣き声が聞こえてきた。母はアイビーを抱きしめ、涙ながらに言っている。

「アイビー、助かるわよ! もう大丈夫だから……」

 母の胸に寄りかかったアイビーの瞳が、勝ち誇ったように怪しく光った。

「お姉ちゃん、ありがとう」

 私は何も言わず、ただ頷くだけだった。

 父は私が翻意するのを恐れ、すぐさまスマホを取り出した。

「イヴリン、今すぐ病院に電話して手術日を確定させるぞ。もう気変わりはしないな?」

 私が否定しないのを見て、彼は手際よく手配を進めた。

「お前なら正しい選択をすると信じていたよ」

 電話を終えた父は、安堵の表情で私を座らせた。

「ようやく分かってくれたか。お姉ちゃんとしての役割というものが」

 彼は一呼吸置き、諭すように続けた。

「アイビーを贔屓していると恨まないでくれ。あの子は養子で、昔から体が弱く、何一つお前に勝てなかった。お前には健康な体があり、バレエの才能があり、ダニエルの愛がある。あの子には何もないんだ。お前が全てを手にするのを、指をくわえて見ているしかなかった。お前よりも、あの子の方が親の愛情を必要としているんだよ」

 幼い頃から、アイビーのために譲歩を迫られる時は決まってこの言い訳だった。

「だが、私たちもお前を蔑ろにするつもりはない」

 父は続けた。

「バレエスクールの枠はキープしてあるし、結婚式も予定通り行う。お前に与えるべきものは何一つ減らさないさ」

 私は首を横に振り、こみ上げる苦い感情を必死に押し殺した。

「バレエスクールの枠はアイビーにあげて。私はもう、必要ないから」

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