第4章

 骨の髄まで凍えるような寒さで目を覚ました。視界は揺らぎ、あらゆる輪郭がぼやけて溶け合っている。

 長身の人影が私を覗き込み、ずぶ濡れになったドレスの裾に指を這わせていた。

 ケイルだ。

 思考よりも先に、体が動いていた。なけなしの力を振り絞って腕を振り上げ、彼の頬を思いきり張り飛ばす。

「触らないで!」

 彼の顔が勢いよく横に弾かれた。

 彼は痣になりそうなほどの力で私の手首を掴み上げると、怒りに声を震わせて凄んだ。

「この俺を殴ったな? いつまでこんな真似を続けるつもりだ?」

「地下酒場のクズどもには平気で体を触らせておきながら、俺が触れた途端に聖女ぶるってわけか?」

「全然違うわ」私は彼を真っ直ぐに睨み返して言い放った。

「少なくともあの人たちは、私を氷水に沈めながら触ったりしなかったもの」

 その時、勢いよくドアが開いた。

 入り口には、毛布にくるまったセラフィンが立っていた。両手には湯気の立つ薬湯の入った器を抱え、いかにもか弱い様子を見せている。

「ケイル……」か細く震える声。

「どうして私を呼んでくれなかったの? あんなひどい罰を受けたから、私……お姉ちゃんのことが本当に心配で」

「私のせいなのよ」彼女は鼻をすすり上げた。

「お姉ちゃんに口答えなんてするんじゃなかった……すごく怖くて、私……思わず足を滑らせて落ちちゃったの」

 曖昧な物言いだ。まるで私が責められないように庇っている振りをしながら、その実、しっかりと同情を引こうとしている。

 私の手首を握るケイルの手に、さらに力がこもった。

 私は腕を振り払って身を起こすと、セラフィンに冷ややかな視線を向けた。

「いい加減にして。その白々しい芝居はやめなさい」

「お姉ちゃん、どうしてそんなこと言うの? 私はただ、様子を見に来ただけなのに……」

「プールの傍であなたが言ったこと、一言一句すべて覚えているわ」私は彼女の言葉を遮った。

「今度また私の母の血筋を馬鹿にしたら、二度と泣き言すら口に出せないようにしてあげる」

「いい加減にしろ!」ケイルが吐き捨てるように怒鳴った。

「セラフィンは溺れ死ぬところだったんだ。それでもお前を心配して来てくれたというのに、それが妹に対する態度か?」

 妹、ね。

 彼の口からその言葉が出たことが、ひどく滑稽に思えた。

「あなたがこの子を甘やかしすぎたからよ」私は言った。

「わざと転んで他人に濡れ衣を着せるような真似、普通なら恐ろしくてできないはずだわ」

 ケイルの堪忍袋の緒が切れた。

 彼が再び私に手を伸ばしてくる。

「今すぐセラフィンに謝れ。そして、明日の誓約の儀式の準備をしろ」

 私は身を躱して彼の手を避けた。

「あなたの儀式なんて、私には何の関係もないわ」

 彼の動きがピタリと止まる。

「……今、何と言った?」

「これがあなたの望みだったんでしょう?」私は彼を見据え、それからセラフィンへと視線を移した。

「優しくて従順なルナ。おあつらえ向きの候補がそこにいるじゃない。まさに天に定められた運命の番ね」

 彼の顔にどす黒い怒りが浮かんだ。猛然と踏み込み、私の腕を掴もうと手を伸ばしてくる。私はさっと一歩後退した。

 だがその一歩が、セラフィンの抱えていた器にぶつかってしまった。

 熱い薬湯が彼女の指から滑り落ち、器が大きく傾いて液体が宙に舞う。

 次の瞬間、ケイルの体が本能のままに動いていた。彼女に向かって飛び込み、その身を抱き寄せるようにして完全に庇い立てたのだ。

 煮えたぎる薬湯が、彼の背中に容赦なく降り注ぐ。

 肉の焼ける不快な匂いが辺りに立ち込めた。月泉の銀によってアルファとしての治癒力を抑え込まれている彼は、その激痛を隠しきれなかった。生々しい、苦痛に満ちたうめき声が彼の喉から漏れ出る。

 セラフィンは彼の腕の中で震え、怯える哀れな少女の役を完璧に演じきっていた。

「ケイル……大丈夫なの?」

 騒ぎを聞きつけ、スローンが部屋に飛び込んできた。だが、彼が真っ先にとった行動はアルファの安否を確認することではなかった。彼は私を乱暴に壁へと突き飛ばした。

 続く足音。数人の護衛たちが入り口になだれ込み、一斉に武器へと手を伸ばす。

 セラフィンがケイルの腕の中から顔を覗かせた。

「お姉ちゃんは魔女よ! その目は呪われているわ! 彼女に見られた人はみんな不幸になる――今だって、ケイルを殺そうとしたのよ!」

 護衛の一人が、すでに銃を抜き放っていた。

 ケイルは荒い息を吐き、背中を焼き尽くすような痛みに額には脂汗を浮かべていた。それでも彼は片手を上げ、突きつけられた銃口を払いのけた。

「下がれ。そいつには指一本触れるな」

 彼は振り返り、私を睨みつけた。

「一体何のつもりだ? お前がどんな駆け引きを企んでいようと、明日の誓約の儀式は予定通り執り行う」

「そう。それじゃあ、せいぜいゆっくり休んで」私は淡々と言い捨てて、ドアへと歩き出した。

 そこで終わらせるつもりはないのか、セラフィンが私に掴みかかってきた。明らかに私の頬を張る気だ。

 振り上げられた手は空中で止まった。ちょうど、私の左右異なる色の瞳(オッドアイ)と視線がぶつかる高さで。

 彼女の腕は空中で硬直した。丸二秒間、彼女はどうしてもその手を振り下ろすことができなかった。

 私はもう彼女に一瞥もくれず、そのままドアを開けて部屋を出た。

 今度こそ、あの部屋を後にしていく私の胸が、前世のように引き裂かれることはなかった。

『私がいけなかったの?』という後悔に蝕まれることもない。

『もう一度だけやり直せるかしら?』という未練が、亡霊のように付き纏うこともない。

 あるのはただ、剃刀の刃のように鋭く、濁りのない確信だけだった――

 すべて、終わったのだと。

 自分の部屋に戻ると、生乾きのドレスを脱ぎ捨てて普段着に着替えた。そして月光邸の紋章を手に取り、ポケットへと滑り込ませる。

 外では誰もが『未来の花嫁』の世話を焼き、明日の儀式用のドレスの準備に奔走している。私のことなど気に留める者すらいない。

 私は通用口から屋敷を抜け出し、手配しておいた黒い車に乗り込んだ。

 運転手がバックミラー越しに私をちらりと見た。

「お嬢さん、あの場所は……かなり荒れてるって話ですよ。危険だとも。本当に行ってもよろしいんで?」

「ええ」手のひらに乗せた紋章を見下ろしながら、私は答えた。

 私の脳裏に、明日、祭壇で繰り広げられるであろう光景がよぎる――ケイルが花嫁のベールをめくり上げる。だがそこに居るのは、掟によって正しく『矯正』されたと信じていた雌狼ではなく、セラフィンなのだ。

 彼はさぞかし、大層お喜びになることだろう。

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