第6章 彼女のそばに男が一人増えた

子どもの力だって侮れない。

佑奈は不意を突かれ、有川菜央にぐいっと押されてよろけた。足がもつれ、このまま倒れる――そう思った瞬間。

有川紘樹が反射的に身体を動かすより早く、誰かが佑奈の腕を掴んだ。

支えられた佑奈は、そのまま体勢を立て直す。

有川紘樹の瞳がわずかに縮む。男の手が、まだ佑奈の身体に触れている。その一点がやけに目について、胸の奥に名づけようのないざらつきが渦巻いた。

有川菜央は、自分が悪いことをしたとは欠片も思っていない。

佑奈が冷たいのが気に入らない。家に帰って自分の世話をしないのも気に入らない。挙げ句、知らない男と一緒にいるなんて。

「ママ、どうして薫おばさんを押すの? 謝って!」

佑奈は、見下ろすように娘を見た。

十月十日、命がけで産んで。五年以上、手をかけて育てた子。なのに胸の芯がすうっと冷える。

「……どの目で、私が押したって言ってるの?」

声は低く、凍っていた。

「有川菜央。あんた、口を開けば『ダメママ』。産んで育てた母親に、敬意を払ったことが一度でもある?」

佑奈は一息で言い切る。

「薫おばさんのほうがいいなら、もう私をママって呼ばないで」

菜央の目がみるみる赤くなる。

記憶の中の母は、こんなふうに叱りつけたりしなかった。怖さが遅れて押し寄せ、菜央は佑奈の服をぎゅっと掴む。どうしていいかわからないのに、意地だけで言い返した。

「押してないなら、どうしてパパが謝れって言うの!」

「……父娘そろって、目が腐ってるからよ」

佑奈は表情ひとつ動かさず、菜央の手を強く払いのけた。

よろけた菜央は、そのまま佐伯薫の身体にぶつかる。

薫は慌ててしゃがみ込み、子どもを抱きしめながら、震える声で訴えた。

「やめてください、佑奈さん……子どもに手を上げないで。私が勝手に転びかけただけです。責めてません。謝らなくていいんです……」

川西拓海が、薫を一瞥する。

「見事な芝居だな」

「……っ!」

薫の顔がかっと赤くなる。まさか、ここでそんな言葉が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。視線を泳がせ、強がるように吐き捨てた。

「あなた、何者? 関係ないでしょう」

「佑奈のことは、俺のことだ」

淡々とした一言なのに、やけに強引で、逃げ場がない。

有川紘樹は目を細め、正面の男を見据えた。

その顔に見覚えがある。

海外の川西グループ社長。経済誌で何度も同じ表紙に並んだ相手だ。上の世界にいれば、知らないほうが難しい名前。

しかも川西グループは、有川が提携を狙ってきた小林グループとも繋がりがある。

ある意味――競合。

昨夜の電話に出たのも、この男だったのか。

自分の知らないところで、佑奈がこんな相手と距離を詰めていた。

そう思った途端、有川紘樹の拳がきゅっと握り込まれる。見れば見るほど癇に障る。

彼は佑奈を冷たく一瞥した。

「先に帰れ。話がある」

命令だった。

使用人に指示を出すのと、何ひとつ変わらない声音。

――結局、自分はこの男の中で、無料の家政婦でしかなかったのだ。

有川家の奥様という札が貼られているだけで。

新婚初夜。ベッド脇に立つ有川紘樹の目には、露骨な軽蔑があった。

『じいちゃんがいなきゃ、俺はお前と結婚なんかしてない。この席に座ってろ。余計なことはするな』

あのときは、傷つきながらも期待していた。

冷たい人なだけ。情が育てば、いつか温まるはずだと。

――六年。

温めたのは自分ではなく、引退を決めた作品が、別の女への愛の証として差し出される現実だった。

夫がそうなら、娘も同じだ。

自分の料理が欲しいとき。寝かしつけが必要なとき。世話をされたいとき。

それ以外のとき、娘は母を見たことがあっただろうか。

佑奈はふっと笑った。冷ややかな嘲りだけを瞳に浮かべて。

「家?」

「離婚届、もう私が署名した。私たちの間に、帰る家なんてあるの?」

有川紘樹の喉仏が小さく上下する。

「……本気なのか。戻らないつもりか」

「ママ! パパが帰れって言ってるでしょ! もうわがまま言わないで!」

菜央は怒鳴りつけた。母への敬意など欠片もない。

佑奈は菜央を見ないまま、冷たく笑う。

「有川紘樹。これがあなたの育てた娘?」

「プレゼントを買ってくれる人が『いい人』で、叱る人は『厳しくてつまらない』」

「私が教えてきたこと、あなたが甘やかして全部消した。あなたに父親の資格なんてない」

有川紘樹の顔色が冷えた。

「佑奈、黙れ!」

「そんな言い方、ひどい……!」

佐伯薫が泣き出す。涙がぼろぼろ落ちた。

「私たちだって、菜央ちゃんが可愛いだけなんです。厳しくするのが正しいとは限らないでしょう? それって……私を責めてるんですか……?」

そして震える声で言う。

「……もう、二度と菜央ちゃんに会いません」

「やだ! 薫おばさんがいい! 離れない!」

菜央もわっと泣き出した。

収拾がつかない。

有川紘樹の額に青筋が浮く。

堪えきれず、低く怒鳴った。

「佑奈。帰れ!」

「帰れと言えば帰るとでも?」

川西拓海が、薄く笑いながら口を挟む。目の奥は氷のようだった。

「有川社長。あなたの品格はどこへ行った」

有川紘樹は目を眇める。

「家庭の問題だ。部外者が口を出すな」

「外で別の女にネックレスを買うのも、家庭の問題か?」

川西拓海の声は棘を含む。

「娘が熱を出したとき、佑奈がいなきゃ何もできないのか。父親のくせに、これまでまともに向き合ったこともない」

「そんな男に、佑奈を『帰らせる』資格があるのか?」

有川紘樹の眉が、ゆっくりと寄る。

苛立つ。反吐が出るほど不愉快だ。

なのに――反論が、出てこなかった。

「もう、やめてください……全部、私のせいです」

佐伯薫が慌てて有川紘樹の腕に縋りつき、涙目で佑奈を見た。

「佑奈さん、怒らないで……帰りましょう? ネックレスなんていりません。私が土下座して謝ればいいんでしょう……?」

そう言って、膝を折ろうとする。

佑奈は鼻で笑った。

「跪けば?」

薫の顔が硬直する。

いつもなら佑奈が慌てて止めた。そう踏んでいたのだろう。

だが、佑奈はただ見ている。

薫は歯を食いしばり、本当に膝をつこうとした。

「薫おばさん!」

菜央が悲鳴を上げ、佑奈の手を掴んだ。

「ママ、もうやめて! 帰って! 私を怒らせないで、パパも怒らせないで! 薫おばさんをいじめないで! そうしないなら、もう一生ママなんて知らない!」

佑奈への不満でいっぱいの顔。

脅しが効かないことへの焦り。

――泣けばすぐ折れて、何でも言うことを聞いた母親が、どうして急に変わったのか。

菜央には理解できない。

佑奈の顔に波はない。

菜央の指を一本ずつ、淡々と外していく。

菜央は呆然とした。

「行こう」

佑奈は川西拓海と並び、踵を返した。

有川紘樹の表情が強張り、無意識に足が出かける。

そのとき――背後から甲高い声が上がった。

「薫おばさん!」

振り返ると、佐伯薫が目を閉じたまま、ふわりと力を失って倒れかけていた。

有川紘樹の追いかける足が、そこで止まる。

彼は咄嗟に薫を受け止め、声を荒げた。

「救急車を呼べ!」

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