第7章 あなたは浮気相手ですか
レストランのスタッフが慌てて救急へ通報した。
廊下は一瞬でざわめきに飲み込まれ、野次馬の視線まで集まって、まるで騒動の中心だけが切り取られたみたいに空気が重くなる。
有川紘樹は佐伯薫を抱きかかえ、人垣を割って外へ急いだ。
薫は腕の中で目を閉じたまま、長い睫毛がかすかに震えている。意識があるのかないのか、その境目でふらつくように、紘樹のシャツの襟元を弱々しく掴んだ。
「紘樹……大丈夫、私……心配しないで……」
そんな状態なのに、こちらを気遣う言葉を絞り出す。
紘樹の足が、反射的に速くなる。
「しゃべるな。すぐ救急車が来る。病院まで俺が連れていく」
背後で、有川菜央が廊下の真ん中に取り残されていた。スカートの裾をぎゅっと握りしめ、どうしていいかもわからない顔。
「……パパ」
呼んだのに、紘樹は聞こえなかったようにそのまま薫を抱いて行ってしまう。
菜央は立ち尽くした。
さっきの一件を面白半分に話す声ばかりが飛び交い、廊下の隅にいる子どもを気にする大人は誰もいない。
斜め向かいの個室。扉が半分だけ開き、そこからくすくすと笑い声が漏れた。
菜央はその気配に気づき、思わず顔を上げる。
中には、女が二人と、菜央と同じくらいの歳の子が一人。テーブルを囲んで食事をしている。女たちは口元を歪め、下品なくらい軽蔑を滲ませていた。
「佐伯さんも大したもんねぇ。命の恩人って看板掲げてさ、有川の奥さんって『正妻』より目立ってるんだから」
「不倫相手は不倫相手よ。全身ブランドで固めたって、あの小物臭さは隠れない。さっきの、いかにも被害者ぶった感じ……吐き気する」
菜央は唇を噛んだ。
そして、そっと近づいて小さな声で尋ねる。
「……いまの、どういう意味? ふりん……あいてって、なに?」
自分たちの会話を、まだ有川家の子どもが聞いているなんて思っていなかったのだろう。大人たちは気づかない。
代わりに、同じくらいの歳の女の子が、女の膝からぴょんと降りて菜央の前へ走ってきた。
「知らないの? 不倫相手ってね、結婚してるのに別の人と付き合うやつ。パパとママの間に入って、パパを取っちゃう人のこと」
菜央は、ぼうっと立ったまま動けない。
女が慌てて自分の子を引き寄せ、菜央を一瞥した。
「実の母親を守らないで、よその女を守るなんて。自分の親を引き裂いて、何がいいんだかね」
吐き捨てるように言って、個室の扉がぴしゃりと閉まった。
菜央の呼吸が速くなる。
言っている意味は全部わからない。でも、ひとつだけ、耳に残った言葉がある。
不倫相手。
――薫おばさんのこと、なの?
薫おばさんは、パパのいちばん大事な友だちで、菜央のいちばん好きなおばさんなのに。
可愛いワンピースも、好きなおもちゃも、薫おばさんはいつも買ってくれた。ママみたいに厳しく怒ったりもしない。
どうして、あんなふうに言われなきゃいけないの。
……でも。
菜央が呆然としているうちに、紘樹が戻ってきた。薫は救急車へ運び込まれ、娘を置いてきたことに気づいたらしい。焦った足取りで廊下へ入ってくる。
そして菜央の手を取るなり、急かすように言った。
「菜央、行くぞ」
菜央は顔を上げ、静かに父を見た。何も言わず、その背中についていく。
紘樹は、娘の異変に気づかない。
店の外へ出ると、菜央を抱き上げ、そのまま救急車へ乗せた。
医師は薫に簡単な診察を施してから言う。
「大きな異常はありません。強いストレスで過呼吸気味になったのでしょう」
紘樹は小さく頷いた。
「念のため救急で検査を。万一が困る」
隊員も頷き、それ以上は口を挟まない。
薫は担架に横たわりながら、紘樹の険しい横顔を見て、ふっと息をついた。申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい……私が迷惑をかけちゃって。たぶん、食事を抜いてて……慌てたら低血糖っぽくなって、胸が苦しくて……私のせい」
そして、わざとらしいほど弱い声で続ける。
「私がいると、いつも佑奈さんとあなたの間に揉め事が起きる。今日だって、最初から来ない方がよかったのかな……私、いない方が……」
菜央は顔を上げ、薫を冷たく見た。
――不倫相手。
その言葉が、喉の奥にひっかかって離れない。
紘樹は薫を宥めるように言う。
「変なこと言うな。お前のせいじゃない。佑奈が最近、ますます度を越してるだけだ」
あの男の影が、胸の奥を重く沈めた。
薫は唇を結ぶ。責める気配が一切ないのを確かめると、目の奥に一瞬だけ得意げな色が走る。
けれど次の瞬間、菜央がぼんやり薫を見つめているのが目に入った。怯えたような、焦点の合わない目。
薫は慌てて菜央の手を握り、引き寄せる。
「菜央、私が倒れたの、怖かった? 大丈夫、大丈夫。おばさんここにいるよ。ほら、平気。何でもない」
少し間を置き、寛大ぶるように笑う。
「それにね、ママが私を押しちゃったことも……私は責めたりしないから。安心して」
菜央は薫をまっすぐ見つめたまま、二秒。
次の瞬間、ぽつりと口から落ちた。
「薫おばさん……不倫相手なの?」
空気が凍りついた。
薫の身体が、文字どおり固まる。救急隊員たちまで目を見開き、互いの顔を見合わせた。
子どもの言葉には、飾りがない。
だからこそ、ときに大人の嘘を容赦なく剥がす。
薫は震える声で、目尻を赤くした。
「……な、何を言ってるの? 菜央、どうしてそんな……」
紘樹は菜央を睨みつけた。怒気を含んだ鋭い視線。
「いま、何て言った?」
菜央は、父のこんな目を見たことがなかった。怖くて肩が跳ねる。それでも、勇気を振り絞ってもう一度聞いた。
「薫おばさんは、不倫相手なの?」
菜央にとっては、ただ「悪い言葉」だ。さっきの女の子が薫を見下すように言った、その響きだけが残っている。
だから、わからない。
どうして、そう言われるのか。
「誰に教わった」
紘樹は娘を乱暴に引き寄せた。
「ママか?」
菜央は必死に首を振る。
「ちがう……レストランで、みんなが言ってた。薫おばさんが不倫相手だって。薫おばさん、ほんとうに――」
言い終える前に、紘樹の怒鳴り声が遮った。
「黙れ!」
菜央の身体がびくっと震え、唇がわなわなと震える。
どうして、こんなに怒るの。
薫は胸元を押さえ、痛ましげに眉を寄せた。
「菜央がどうしてこんな質問を……。私はただの友だちよ? 不倫相手だなんて、あるわけない。人の噂を信じるの?」
紘樹は深く息を吸い、胸の中の苛立ちを無理やり押し込めた。
薫を、誰にも汚させたくない。
薫は自分の命の恩人だ。
六年前、彼女が助けてくれなければ、自分はもうここにいない。
その借りは、一生背負っていく。
紘樹は冷たく言い放つ。
「薫は恩人だ。お前にもよくしてくれてる。二度とそんなこと言うな」
菜央は怖さで喉が詰まり、しゃくり上げた。
薫が慌てて抱き寄せ、ティッシュで涙を拭く。
「もう……子ども相手にそんなに怒らないで」
紘樹は鼻で笑った。そのとき、前方に幼稚園の建物が見えてくる。紘樹は低い声で指示した。
「ここで停めてくれ」
運転していた隊員が首をかしげながら、路肩へ救急車を寄せて停車する。
紘樹は菜央を抱えて外へ降ろし、地面に立たせた。
「自分で幼稚園へ行って反省しろ。二度とそんなくだらない言葉を口にするな」
それだけ言い捨て、振り返りもせず救急車へ戻る。
菜央は、幼稚園の前に一人置き去りになった。
人は行き交い、子どもの声が飛び、家族が迎えに来ている。にぎやかなはずの場所が、急に知らない世界みたいに遠く感じる。
怖い。どうしていいかわからない。
菜央は、声を押し殺せなくなって、わあわあと泣き出した。
キッズスマートウォッチを取り出し、母の番号を探す。
佑奈に電話するのは、久しぶりだった。
電話をすると、いつも宿題は終わったか、野菜は食べたか――そう言われるのが嫌で、菜央は薫にばかり電話していた。薫ならハンバーガーやお菓子を買ってくれて、欲しいものもくれるから。
でも今は、理由もわからないのに、佑奈の声が聞きたかった。
繋がった瞬間、菜央は嗚咽混じりに叫んだ。
「ママ……!」
佑奈はランティン本部のオフィスに立ったまま、受話器の向こうの大きな泣き声を聞き、眉をわずかに寄せる。何も言わない。
菜央は息が続かないほど泣いていた。
「ママ、私のこと、もういらないの? 幼稚園で一人で、こわい……帰ってきて迎えに来て。パパが幼稚園に置いていって、もう知らないって……!」
佑奈の胸が、きゅっと痛んだ。
十月十日、身を削って産んだ子だ。こんなに泣かれれば、揺れないはずがない。視線に迷いの光が揺らぐ。
――その瞬間。
通話がぷつりと途切れ、画面には終了の表示。
電池が切れたのか、それとも菜央が切ったのか。答えは、どこにもない。
