第9章 しつこく付きまとう
佐伯薫の顔に浮かんでいた笑みが、瞬く間に凍りついた。
けれど次の瞬間には、何事もなかったように表情を整え、少しだけ委屈そうに見せる。
「先生に言われたの。軽い低血糖だから、休めば大丈夫だって。紘樹が心配して……気分転換に外へ出ようって連れてきてくれただけ」
瞳の奥に、しっとりとした色が滲む。
「佑奈さん、どうか誤解しないでね」
佑奈は目の前のグラスを持ち上げ、ひと口だけ含んだ。
それから白石羽奈を呼ぶ。
「羽奈」
「はいはい」
羽奈が即座に応える。
佑奈はグラスを手に立ち上がった。
「ボックス席、やめよ。うるさいハエがずっと周りを飛び回ってて鬱陶しいし。個室で遊ぼ」
有川紘樹が眉間に深い皺を刻み、露骨に不機嫌さを強める。
佑奈は彼を一度も見ないまま、白石羽奈と連れ立って歩き出した。背後のホストたちも慌ててついていく。
有川紘樹の顔色は暗く、佑奈の背に向かって低い声を投げた。
「佑奈、何のつもりだ」
佑奈はようやく足を止め、振り返る。
「あなたには関係ない。あなたは自分のこと、私に何ひとつ説明したことないでしょ。なのに私だけ説明しろって?」
一拍置き、淡々と続ける。
「それから、離婚協議書。さっさとサインして渡して」
言い捨てて、佑奈は振り向きもせず階段へ向かった。
有川紘樹はゆっくりと拳を握り締める。
あの離婚協議書に、彼はサインしていない。
三日もしないうちに、佑奈がいつものように折れて戻ってくる。そう決めつけていた。
なのに戻らないどころか、友だちと一緒にこんな場所でホストを指名している?
いつも自分だけを見て、へりくだって愛想よく媚びていた姿は――全部、演技だったのか。
外ではずっと、友人たちと好き放題遊んでいたとでも言うのか。
有川紘樹の周囲に、重たい空気がのしかかる。
佐伯薫は唇を噛み、彼の感情が揺さぶられ続けているのを見て、探るように言った。
「紘樹……私たちも、向こうに座らない?」
有川紘樹は小さく頷くだけで、何も言わずに一行とともに移動した。
個室に入るなり、佑奈はホストたちを下がらせた。
白石羽奈が口を尖らせる。
「え、どうしたの? 好みじゃない? お金、払ったのに」
佑奈は笑って羽奈を見る。
「うん。まったく刺さらなかった」
白石羽奈が言葉に詰まる。
……まあ、そうだろう。
有川紘樹の顔立ちだけ見れば、確かに一級品だ。そんな男と結婚してしまったら、他が霞むのも不思議じゃない。
白石羽奈はグラスを持ち上げ、むすっとしたままひと口飲んで、ふっと息を吐いた。
「それにしてもさ。まさか私が連れてきたタイミングで、あんなふうに紘樹があのクズ女を連れて来るなんて」
佑奈は気に留めず、首を横に振る。
「いいよ。もう慣れたし。……先にトイレ行ってくる」
少し、息をしたかった。
佑奈が扉を押して出る。手を洗い終えて廊下へ出たその瞬間、正面から誰かとぶつかりかけた。
佐伯薫だ。
佑奈は見えていないかのように、そのまま肩をすり抜けようとする。
そのとき、佐伯薫が呼び止めた。
「佑奈さん」
声はやわらかく、甘さが混じる。
「ちょうど会えたから聞かせて。私、どうしてあなたにそこまで嫌われるのかな。紘樹が私に優しいのは、友だちだからよ? これ以上、私に当たるのはやめてくれない?」
佑奈は眉を上げた。
「言いたいこと、それだけ?」
佐伯薫が一瞬、言葉を失う。
佑奈は鼻で小さく笑い、そのまま行こうとした。
「待って」
佐伯薫が追い、ハンドバッグから何かを取り出して佑奈の前に差し出した。
「これ、見て」
佑奈が視線を落とした瞬間、目が釘づけになる。
小さな赤いお守り。毛羽立って、少し破れている。
見間違えようがない。
菜央が体調を崩したとき、佑奈が寺でわざわざ授かったものだ。娘は三年も肌身離さず持っていた。それが、なぜ佐伯薫の手の中にある。
佐伯薫は優しい目をする。
「菜央がくれたの。私、体が弱いから、お守りがあったほうがいいって。ほんと、気が利く子だよね」
佑奈はそのお守りを見つめながら、胸の奥をざらつく感情ごと押し沈めた。
「もらったなら、持ってれば。……他に何か?」
佐伯薫は佑奈が一切動揺しないのを見て、今度は別の物を取り出す。翡翠のペンダント。古風な雲の文様が彫られ、つややかで温かな光を湛えていた。
「これは知ってるよね。有川家の家宝」
佑奈が知らないはずがない。
結婚した当時、有川爺さんはこの翡翠のペンダントを佑奈に渡そうとした。だが有川紘樹が受け取ってしまった。
彼女は、まだ自分を有川家の奥様として認めていないから、いったん預かったのだと思い込み、いずれ渡されるものだと――勝手に信じていた。
まさか、佐伯薫に渡していたなんて。
笑える。
そこまで佐伯薫がいいなら、離婚協議書にサインして終わらせればいい。なのに終わらせないのは、娘の世話をいちばん丁寧にするのが佑奈だと分かっているから。使えるうちは使い倒したいだけだ。
けれど、もう無理だ。
言うことを聞いて、縮こまって、都合よく尽くす専業主婦には戻らない。
「紘樹が言ってた。この翡翠のペンダントは、有川家の嫁にだけ受け継がれるものだって。でも、それを私にくれたの」
佐伯薫の目に、あからさまな挑発が宿る。
「あなた、これで余計に怒ってるの?」
佑奈は完全に堪忍袋の緒が切れた。
「私と有川紘樹は、まだ離婚してない」
冷えた声で言い切る。
「そのペンダント持って得意げになっても、証明できるのはあなたが浮気相手ってことだけ。ほかに何を証明できるの?」
佐伯薫の顔から血の気が引く。
佑奈は嘲るように息を吐いた。
「私に見せびらかす暇があるなら、有川紘樹を急かして離婚協議書にサインさせたら? 私が席を空けてあげる。そうしない限り、あなたはずっと名分のない浮気相手のまま」
そう言って踵を返す。
佐伯薫は悔しさに胸を上下させ、険しい目で佑奈に突進し、その服を掴んだ。
「そこまで言い方きつくする必要ある? 浮気相手、浮気相手って……私と紘樹が何をしたっていうの。どうしてそんな侮辱を受けなきゃいけないの!」
佑奈は袖を引いて振りほどこうとするが、外れない。冷たい顔のまま言う。
「離して。ここでみっともなく絡まないで」
「離さない。ちゃんと説明して」
佐伯薫は廊下の端からこちらへ近づく気配を横目で捉え、さらに強く佑奈の服を握り込む。
佑奈は何度も手を振った。外れない。
ぶち切れて頬を張ろうとした、その瞬間――佐伯薫が佑奈の力を借りるようにして、ふっと手を離した。
「あっ……!」
佐伯薫は数歩よろけ、背中を壁へ強く打ちつける。
「……っ」
痛みに喉を鳴らし、そのまま壁伝いにずるずると座り込んだ。
有川紘樹はトイレへ向かうついでに、佑奈が個室で本当にホストと遊んでいるのか確かめようとしていた。
なぜそこまで気になるのか、自分でも分からない。酒を飲んでいても落ち着かなかった。
廊下へ出た途端、その光景が目に飛び込んだ。
佐伯薫の顔が苦痛で歪むのを見て、有川紘樹は一気に歩み寄る。
「触るな!」
