第003章
向かいで、手にした箱を見下ろした藤原行船の顔がすっと曇る。
「また有紀か。友香、おまえいい加減にしろよ。何でもかんでも有紀のせいにするな」
夫の不機嫌がありありと滲んだ顔を前にしても、菅田友香は表情ひとつ変えない。スマホをひょいと持ち上げた。
「私も忘れてた。藤原社長は今夜、忙しくて目が回ってたし……これ、まだ見てないでしょ?」
藤原行船は鼻で笑うように一瞥した――その瞬間、顔が固まった。
画面に映っていたのは、菅田有紀のSNSの最新投稿。
添えられた写真は、限定のハイブランドバッグ。軽く7桁は超える代物だ。その隣には、同じブランドのピアスがちょこんと置かれていて、札にははっきりと「非売品」とある。
そして本文。
「誰かの買い物に付き合った代償! でもこのオマケ、ちょっと老けて見えるし私には合わないかも~」
藤原行船の瞳の奥に、かすかな動揺が走る。
菅田友香はそれを見逃さず、薄く笑った。
「すごい偶然。あなたが『私のために』選んだプレゼントが、彼女の『似合わないオマケ』と、まったく同じ」
嘲るような声音に、藤原行船は我に返った。
けれど、罪悪感より先に不快感が立つ。眉をきつく寄せた。
「有紀はおまえの妹だろ。俺が誕生日プレゼントを用意してないって見て、善意で持たせてくれただけだ。何が悪い?」
「友香、おまえは小さすぎる」
菅田友香の目は冷え切っていた。彼の非難など、相手にしない。
「ただ一緒に街を歩いただけで、有紀には何百万のバッグ。私は? あなたのために仕事を捨てて、6年。子どもを産んで育てて、昼も夜もあなたたち親子のために回って……それで、オマケ?」
「笑えるね」
藤原行船は苛立ちまじりにシャツの一番上のボタンを外す。
「有紀は海外の名門大を出た若手デザイナーだ。いい物を持つべきだ」
「それにおまえは、家と台所と子どもだけ。高い物を買っても使う場面がない。無駄だろ」
菅田友香の顔に、薄い「合点」の色が浮かぶ。
「……そう。分かった」
「私には――不相応ってことね」
もうとっくに、この男の薄情は見切ったはずだった。
それでも胸の奥が、ちくり、と疼く。
6年。すべてを注いで返ってきたのが――「不相応」。
しかも藤原行船は詫びるどころか、さらに不機嫌になった。
「友香、何が言いたい。嫌味か?」
「俺が有紀の面倒を見てるのは、おまえたち姉妹の関係を修復するためだ。恩知らずなことを言うな」
菅田友香の瞳に、信じがたい光が走る。
彼女はベッドからゆっくり立ち上がり、瞬きもせずに男を見据えた。
「じゃあ、感謝しろって?」
「行船……本当に忘れたの? うちの母が、どうして死んだか」
藤原行船の目が揺れた。何かを思い出したように、視線が泳ぐ。
やがて、箱を机に乱暴に放り投げた。
「もういい。喧嘩したくない」
「要るなら持て。要らないなら捨てろ」
次の瞬間、背を向けざまにドアを叩きつける。
「今夜は書斎で寝る」
箱は机の端でぐらりと揺れ――ころころと転がり落ち、床にぶつかって中身がばらばらに散った。
その惨状を見ても、菅田友香の心は微動だにしない。
指一本動かして片づける気すら起きなかった。
……もういい。
どうせ、ここにあるものは何ひとつ要らない。
書斎。
洗面を終えても、藤原行船の腹の底の苛立ちは収まらなかった。
どうした?
いつも従順で、何より自分を優先してきた菅田友香が、今日は別人みたいだ。
以前なら、数千円の小さな贈り物でも、目を輝かせて喜んだ。
なのに今回は――。
耳飾りが気に入らないのか?
それとも夕食の件で、まだ根に持っている?
藤原行船は眉間を指で揉み潰す。
謝れと言っただけだろう。そこまで引っ張ることか。
有紀は優しい。菅田友香がどれだけ理不尽でも争わず、いつも自分の前で取り繕ってくれる。
もしあの時、圧に屈せず、有紀の帰国を待っていたら――今の生活は違ったのかもしれない。
……やめろ。
結婚して子どももいる。考えるべきじゃない。
菅田友香のことは、いつも通りだ。二日ほど放っておけばいい。
気が済めば、また元通り従順になる。
翌日は日曜。
藤原行船が階下へ降りると、菅田友香の姿がない。
いつも当たり前のように置かれている、胃に優しいスープもない。
普段なら、彼女はもう食卓のそばにいて、微笑みながら父子が降りてくるのを待っているのに。
「田中さん。友香は?」
朝食を運んでいた田中が、慌てて頭を下げる。
「旦那様、奥様は今朝早く、お出かけになりました」
朝早く?
藤原行船の眉間がぴくりと跳ね、訳の分からない怒りが込み上げた。
まだ駆け引きのつもりか。
今まで甘やかしすぎたせいで、分際を忘れたんだ。
今回は徹底的に分からせる――そう心に決めた、その時。
藤原翔太が目をこすりながら降りてきて、不満げに言った。
「パパ、ママは? 今日、起こしてくれなかった」
藤原行船は手招きする。
「出かけた。早く食べろ」
田中が朝食を並べる。
「旦那様、坊ちゃん。どうぞ」
だが内容は、いつもの菅田友香の手作りとは比べようがない。父子の体質や好みに合わせた、あの細やかさがない。
翔太は二口で箸を止め、口を尖らせた。
「パパ、やだ。もう食べない」
藤原行船も喉を通らず、カトラリーを置く。
「いい。昼、外で食べよう」
翔太はぱっと顔を明るくして、手を叩いた。
「やった!」
それから玄関のほうをちらりと見て、母がいないのを確かめると、にやにやしながら見上げた。
「ねえパパ、おばちゃんも呼んでいい? 翔太、おばちゃんと遊びたい」
息子の隠しようのない好意に、藤原行船は珍しく口元を緩めた。
「いい。あとで電話する」
翔太が嬉しそうに階段を駆け上がっていくのを見送りながら、藤原行船は目を細める。
菅田友香。
この家は、おまえがいなくても回る。
むしろ翔太と二人のほうが気楽だ。
後悔するのは、おまえだ。
しばらくして、電話をかけようとしたとき。
スマホが震え、決済通知が届いた。
388,000円?
結婚のときに菅田友香へ渡した家族カードだ。
だが6年余り、倹約家の彼女が三万円を超える支出をしたことは、ほとんどない。
388,000円など、藤原行船にとっては些細な額だ。昨夜、有紀に買ったバッグのほうが高いし、この半年で有紀に使った金は何千万にもなる。
――それでも。
一度に388,000円を使うのが、菅田友香だというのなら話が別だ。
「ピン」
「ピン」
「ピン」
決済通知が、立て続けに届く……。
