第004章

通知の内容を見た瞬間、藤原行船は眉間に深い皺を刻んだ。

菅田友香――いったい何をしている?

J市随一の高級ショッピングモール、万卓ビルホテル。

菅田友香は新品の、風をはらむようなロングワンピース姿で、親友の清水奈々と一緒にブランド店から出てきた。両手には紙袋がずっしり。

「どう? 買い物したら、ちょっとはスッキリした?」

清水奈々は元気いっぱいで、表情までぱっと花が咲いたみたいだ。

友香はふうっと息を吐き、苦笑まじりに頷く。

「うん、確かに楽になった。でも……ちょっと贅沢しすぎたかな」

「贅沢?」奈々は露骨に不満そうに顔をしかめた。「あんた、藤原行船と結婚して六年以上よ? 今まで使ったお金ぜんぶ足しても、あいつが菅田有紀に買ったバッグ一個にも届かないじゃない。友香、いい加減、こっちも意地見せなよ」

そして腕まくりする勢いで言い放つ。

「次、次! 今日は1,000万いくまで帰らないから!」

けれど友香はスマホで時間を確かめ、首を横に振った。

「もういい。小林弁護士も、そろそろ着く頃だし」

奈々は「まったく……」と言わんばかりに友香を睨み、探るように続ける。

「本気で……離婚するの? 決めたの?」

「する」

友香は迷いなく、たった一言で返した。

奈々は親指を立てたが、すぐに目元を曇らせる。

「じゃあ……翔太は? 藤原家、渡してくれないと思うよ……」

友香はしばらく黙り込み、やがて淡々と言った。

「翔太も、いらない」

「は?」奈々の目が見開かれる。「あんた、翔太を手放すの? 命みたいに大事にしてたじゃん!」

友香は親友を静かに見返す。

「何がそんなに惜しいの。あの子も行船と同じ。いちばん好きなのは菅田有紀だよ」

奈々は唇を引きつらせ、勢いよく吐き捨てた。

「はぁ!? ……ふざけんな。恩知らず!」

「当時あんた、突き飛ばされて早産で、半分死にかけながら産んだんだよ? そのあとも体を整えるために、外にもほとんど出ないでさ。なのに菅田有紀みたいな――あんな小賢しいのがいいとか、目ぇ腐ってんのかよ!」

奈々が怒りで肩を震わせるのを見て、友香の胸の奥がじわりと温まる。

何年も時間も心も注いだ藤原行船と、その息子より――清水奈々のほうが、ずっと自分のことを思ってくれている。

「……もういいよ。怒らないで。私、あの人たちのこと、もうどうでもいいから」

「ほんとに?」

奈々は立ち止まり、目を赤くして友香を見つめたかと思うと、いきなりぎゅっと抱きついてきた。

「でもさ、私のほうが悔しい。友香が可哀想で……どうしたらいいの?」

奈々の腕にぶら下がった紙袋が、どん、どん、と友香の背中に当たる。友香は泣くに泣けず笑うに笑えず、肩をすくめた。

「はいはい。まずは下で小林さんを待とう」

奈々はこっそり目尻を拭い、すぐにいつもの調子でしゃべりながら、友香と並んで階下へ向かった。

――だが二人とも気づいていなかった。

モールの反対側から、刺すような視線が執拗にこちらを追っていたことに。

藤原家。

決済通知がようやく鳴り止んだと思った矢先、今度は着信音が響いた。

有紀?

藤原行船はすぐに通話ボタンを押す。

「行船兄さん、ねえ。さっきモールで誰に会ったと思う?」

受話口から、甘く澄んだ声が弾んで流れ込む。

「……誰だ」

行船の声が低くなる。

「お姉ちゃん」

有紀があっさり言った。

行船はスマホを握る手に力が入る。

「どこにいる?」

有紀は視線を向ける。そこには、見知らぬ男と向かい合って座る菅田友香の姿。赤い唇が小さく弧を描いた。

「万卓ビルホテルだよ」

少し前。清水奈々が急用で席を外し、カフェには友香と、奈々が紹介した小林弁護士だけが残っていた。二人は離婚協議の打ち合わせを続けている。

「菅田さん、こちら……追加したい点などありますか」

小林弁護士が、まとめた条項を差し出す。

友香はノートパソコンを受け取り、ざっと目を走らせた。

「大丈夫です。問題ありません……」

その言葉が終わる前だった。

「お姉ちゃん? どうしてここにいるの?」

背後から、艶のある声がふわりと降ってくる。

友香が振り返ると、白いワンピースの菅田有紀が、驚いたように目を丸くして立っていた。風に揺れる小百合みたいに、楚々として。

友香の顔が一気に冷える。

「私がどこにいようと、あなたに関係ある?」

装いを一新した友香を見た瞬間、有紀の瞳の奥を黒い影がさっとよぎった。

――なに、あの格好。

――まさか、行船兄さんの目を引き直すつもり? ありえない。絶対に。

胸の底で毒づきながらも、有紀は弱々しく笑ってみせる。

「そんな、誤解しないで。ただ、なんとなく聞いただけ」

そして、わざとらしく付け足した。

「だっていつもなら、この時間はおうちで、行船兄さんと翔太のお昼ごはんの支度してるでしょ?」

言い終えたあと、ふと思い出したように首をかしげ、無邪気に笑う。

「……それと、私の薬膳も」

声は柔らかく、表情も薄い微笑み。誰が見ても「害のない子」にしか見えない。

そのぶん、友香だけが冷たく、刺々しく映る――。

けれど友香にはわかった。有紀の言葉の底に沈む、挑発と嘲笑が。

友香はゆっくり顔を上げ、有紀の目に残る勝ち誇りを捉える。

「薬膳なんて、作りたい人が作ればいい」

有紀の表情が一瞬ひきつった。だがすぐ、慌てたふりをする。

「お姉ちゃん、ごめん……また変なこと言っちゃった? 怒らないで、お願い……」

有紀は友香の手を掴み、焦ったように縋りつく。

そして不意に言葉を切り、友香の耳元へ身を寄せて囁いた。声を甘く落として。

「でもね、お姉ちゃん。怒っても無駄だよ~。だって私、言ったよね。お父さんは私のもの、菅田家も私のもの。……そのうち行船も、私のものになるんだから」

その瞬間、友香の脳裏に――遠い光景が、刃物みたいに蘇った。

J市、中央通り。

通りの片側。母の東山菫が、十歳の友香の手を握って立っていた。

反対側には、菅田明弘が菅田有紀の手を引き、もう一方の腕には愛人の菅田静子。寄り添う姿は、まるで向こうこそが「家族」だった。

重い沈黙が張りつめる中、有紀が急に明弘の手を振りほどき、こちらへ駆けてくる。友香の手を取り、やけに親しげに叫んだ。

「お姉ちゃん!」

友香は掴まれた自分の手を見下ろし、どうしていいかわからず固まった。

「……」

次の瞬間、有紀は友香の耳元に口を寄せ、子どもの声で――子どもが言ってはいけない言葉を吐いた。

「ねえ、あんたのママ、まだ死なないの? パパが言ってたよ。あの人が死んだら、私とママを菅田家に入れてくれるって。そしたらパパも、菅田家のものも、ぜんぶ私のものだって」

幼い声の毒が、今も耳の奥で反響する。

友香は堪えきれず、力任せに手を引き抜いた。

「触らないで! 汚い!」

「きゃっ!」

すると有紀は、左側を素早く一瞥したかと思うと、わざとらしく悲鳴を上げ、そのまま後ろへ倒れ込んだ――。

……まただ。引っかかった。

案の定、友香が反応するより早く、大きな影が風を切って飛び込んできた。有紀の体を抱え込み、倒れないよう支える。

「有紀! 大丈夫か!?」

有紀は真っ青な顔で震え、来た相手を見上げると同時に目を潤ませた。

「行船兄さん……だ、大丈夫……お姉ちゃんは、私を押してない」

その視線を追って、藤原行船がようやく友香を見た。声には露骨な苛立ちが滲む。

「友香、謝れ」

遅れて藤原翔太も駆けてきて、有紀の側にぴたりと立つ。小さな眉をきつく寄せ、腰に手を当てて言い放った。

「ママ、なんでまたおばちゃんいじめるの? はやく謝って!」

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