第008章
藤原行船は怒りを噛み殺し、ゆっくりと歩み寄った。
「俺と翔太の飯は?」
菅田友香は夢から覚めたみたいに、ようやく目を上げる。
「ああ、帰ってきたの?」
そう言うと、彼女はくるりと厨房のほうへ顔を向けて声を張った。
「田中さん、ご飯お願い」
呼び終えるや否や、また何事もなかったかのように黙々と箸を動かし始める。
その態度があまりに淡々としていて、藤原行船は怒鳴りつけるタイミングすら掴めなかった。
ほどなくして田中さんが手早く料理を運んでくる。
皿を見た瞬間、藤原行船の顔が沈んだ。
「……これ、作ったのはおまえか?」
田中さんは何かを察したのか、肩をすくめるように小さくなって答える。
「はい……奥様はご自分の分だけでして、こちらは私が……」
血が一気に頭にのぼる。藤原行船は深く息を吸い、どうにか押し込めた。
手を振って田中さんを下がらせ、それから息子にも言う。
「翔太、先に上で着替えてこい」
全部整えてから、藤原行船はどさりと菅田友香の隣に腰を下ろし、声を落とした。
「俺はまだ、おまえに文句ひとつ言ってない。なのに、先に喧嘩を売ってきたのはどっちだ?」
菅田友香は意味が分からないとでも言いたげに、箸を止めた。
「喧嘩なんて売ってないよ。静かにご飯が食べたいだけ」
藤原行船は奥歯をぎり、と噛みしめる。
「じゃあ何で、自分の分しか作ってない。俺たちの分は――」
言い終える前に、菅田友香がうんざりしたように遮った。
「あなたたち、菅田有紀と食べると思ったから。多く作っても余るでしょ、もったいない」
その言い方が、刺のある笑いみたいに聞こえた。
藤原行船は低い声で問い詰める。
「……でも俺、今夜は家で食うってメッセージ送ったよな?」
菅田友香は「あっ」と思い出したように目を瞬かせ、次の瞬間スマホを取り出して確認した。
そして、どうでもよさそうに言う。
「ああ。さっきまで忙しくて、見てなかった」
「おまえ……!」
爆発しそうな怒りを、藤原行船はぎりぎりで飲み込んだ。
「もういい。喧嘩はしたくない。ただ――」
「言いたいことあるなら早く言って。食事の邪魔」
菅田友香の不機嫌が、そのまま刃になって飛んでくる。
藤原行船は勢いよく立ち上がり、胸が大きく上下する。しばらくしてようやく呼吸が落ち着いた。
どういうつもりだ。
本気で、いつまでも拗ね続ける気か。
だが、どれだけ機嫌を損ねようと、有紀のスープだけは作らせる。
荒い感情を押し殺し、藤原行船は淡々と言い渡した。
「明日、早めにスープを煮ておけ。病院に持って行く。有紀に」
その返事は、あまりにもあっさりしていた。
「無理。時間ない」
「友香、いい加減にしろ!」
藤原行船の声が硬くなる。
「ピアスの件は、悪いのは俺だ。有紀は関係ない。おまえは、いちいちあいつに当たるな」
「それに有紀は体が弱い。翔太だって、おばちゃんを気遣うって分かってるのに……なんでおまえだけ、そんなに意地を張る?」
藤原行船が真正面から菅田有紀を庇うのを聞いて、菅田友香は、もう我慢する気が失せた。
がたん、と椅子が鳴る。
菅田友香は立ち上がった。
「まず、今日絡んできたのはあっち。次に、私、押してない」
「あなたたち親子、目が悪いなら病院で眼科に診てもらえば?」
初めて見る鋭い言い返しに、藤原行船は口を開けたまま言葉を失い、しばらくしてようやく吐き出した。
「……話にならない」
菅田友香は冷たく笑う。
「話にならないなら、それでいい。私のことを管理する暇があるなら、あなたの有紀でも管理して」
「それから、菅田有紀が体弱いかどうかなんて、私には関係ない。道徳で縛ろうとしないで」
一拍置き、吐き捨てるように続けた。
「本音言っていい? 早く死ねばいいのにって思ってる」
藤原行船は凍りついた。次の瞬間、怒りで指先が震え出す。
「友香……おまえがそんなに悪辣だとは……俺は、てっきり優しい人間だと――」
「やめて」
菅田友香は手をひらりと振り、切り捨てる。
「優しさを向ける場所を間違えたら、それはただの愚かさ」
「この半年、菅田有紀がちょっと泣き真似すれば、あなたたちは善悪も確かめずに私に謝れって言った」
「あなたはあの子に部屋を借りて、何十万のバッグ、何百万の宝石まで買うのに、私には数千円の小物。挙げ句、タダのオマケ」
「何度もあったよね。同じベッドにいるのに、菅田有紀から電話が来たらあなたは飛んで行く」
「口では『妹として』って言うくせに、考えてみて。あなた、実の妹より大事にしてるじゃない」
「藤原行船。自分を騙すの、やめなよ」
一気に吐き出し、菅田友香は目を閉じて息を長く吐いた。
「もう付き合わない。好きにしたら」
踵を返した、その腕を――藤原行船が慌てて追い、前に回り込んで塞いだ。
「友香、何を急に発狂してる。俺がやってるのは、おまえたち姉妹を元に戻すためだろ。どうして分かってくれない」
苛立ちに髪をぐしゃりと掻き上げる。
「とにかく、有紀はおまえの妹だ。情も理もある。おまえが面倒を見るべきだ」
「だから、明日のスープは必ず煮ろ」
あまりに当然だと言わんばかりの顔。
菅田友香は一語ずつ、噛んで落とした。
「……無——理」
そう言い捨て、今度こそ階段へ向かう。
背中を見送った藤原行船は、怒りのままに言葉を投げた。
「だったら、離婚だ」
その声に、階段へ足をかけた菅田友香が、すっと動きを止めた。
藤原行船の口元に、予想通りだという確信が浮かぶ。
ほらみろ。
離婚と言えば折れる。こいつは、俺に惚れ抜いている――。
しかし、菅田友香はゆっくり振り返り、淡々と言った。
「うん。じゃあ……離婚しよう」
