第1章
「ママ、パパのお誕生日会……もう始まってるの?」
秋雨がしとしと降る。篠原霧音は娘の手を引き、丘の中腹に建つ別荘の、装飾が施されたアイアンゲートの前に立っていた。雨に濡れた前髪が額に貼りつき、数本の髪が頬に張りつく。
屋敷の中は、眩しいほど明るかった。
篠原霧音は無理に笑って、娘の頭を撫でた。
「たぶんね。入ってみようか」
手を引いたままオークの扉に触れた、その瞬間――内側の談笑が、くっきりと耳に刺さった。
「灯さんさ、俺に言わせりゃ月が戻ってきたんだ。ヨリ戻すべきだろ。篠原霧音とは早く離婚しちまえよ」
「そうそう。月姉さんを今も昏睡させたままって何? 月姉さん、海外で医学まで学ばされて、やっと帰ってきたのに。灯さんの子を孕んでなきゃ、今みたいになれたわけないでしょ」
「俺、あの女見るだけで吐き気する。笠原家が止めなきゃ、あの時とっくに始末させて、清水の鬱憤晴らしてたわ」
ひとつひとつの言葉が、毒を塗った針みたいに心臓へ突き刺さる。痛みで顔色がさっと引いた。
扉の隙間から見えたのは、ソファの中央に座る男。高級な黒のスーツ、開いた襟元。通った鼻梁と眉骨が凛として、切れ長の鳳眼は深く、危ういほど魅惑的だった。
長い指先で葉巻を挟み、白い煙が眼差しをぼかす。
耳障りな悪口の数々に、彼は何の反応も示さない。――当然のように、黙認していた。
篠原霧音の心が、ゆっくりと沈んでいく。
そのとき、中の女が穏やかに笑った。
「今は今、昔は昔よ。昔の話はもうやめましょう」
「それに、篠原さんのことも責めないで。灯のことが好きすぎただけ。やり方が少し過激だったのよ」
「はいはい、それはいいとして。月、今日は灯さんに何贈ったの? 灯さん、入ってきた瞬間からずっとあなたの手元見てたじゃん」
清水月は笑う。
「たいしたものじゃないわ。普通の品よ」
「またまた。月が手作りしたもの、灯さんは毎回すごく大事にするだろ? ねえ、灯さん」
廊下の吹き抜けを渡る風が、ひゅう、と冷たく流れ込んだ。
返事を待つ数秒。篠原霧音の心は、底まで冷え切った。
ガラスに映った自分を見つめる。掌に収まるほどの小さな顔、白い肌、淡いカフェオレ色のニット。おとなしく柔らかな印象で、とても彼らが言う「悪女」には見えない。
――でも、悪女なのだ。
彼らの口にすることは、ひとつ残らず、自分がやったこと。弁解する立場さえない。
奈々の小さな手が、掌の中で微かに震えた。篠原霧音は息を吸い、喉の奥の詰まりを押し込めて扉を押し開ける。
室内の声が、ぴたりと止まった。
剥き出しの侮蔑と驚きが、いくつも彼女に突き刺さる。
「灯さん、なんであいつまで呼んだんだ?」誰かが小声で囁く。
笠原灯は眉を寄せ、薄い唇をきつく結んだ。歓迎していないのが丸わかりだった。
――皆が察した。篠原霧音が勝手に来たのだ、と。
篠原霧音はその場に立ち尽くす。胸が針で何本も刺されるみたいに、細かい痛みが広がり、唇の色まで薄くなる。
「パパ!」
奈々が手を振りほどき、弾むように笠原灯へ駆けていく。
「お誕生日おめでとう!」
笠原灯は体を少し後ろへ引き、子どもの抱きつきを避けた。
「誰が連れてこいと言った?」
篠原霧音は苦く口元を引いた。
奈々は五年前の、あの夜に宿った子。
彼は彼女を嫌っている。だから、奈々も好きになれない。
奈々は丁寧に包まれたプレゼントをぎゅっと抱えていたが、大きな瞳の光が「ぷつん」と消え、小さな顔がしゅんと落ちる。
清水月がそれを見て、小さく息を吐いた。
「灯、子どもなりの気持ちよ」
奈々に優しく微笑みかける。
「ほら、おばさんに見せて? プレゼントはね、気持ちが一番大事なの」
奈々がおずおずと差し出す。清水月が受け取ろうとした――その瞬間、篠原霧音が先に奪い取った。
清水月の顔が一瞬だけ歪む。だがすぐ、何事もなかったように整う。
篠原霧音はしゃがみ、娘に柔らかく言った。
「奈々、自分で開けて、パパに見せてあげよう?」
奈々はこくりと頷き、慎重に包みをほどいた。出てきたのは手作りのアルバム。
表紙には色紙の切り貼りで「家族」の絵が作られている。幼いけれど、心がこもっているのが分かる。
「パパ、奈々が作ったの……中にね、ママと奈々と、パパのお写真も……」
奈々が差し出したとき、笠原灯は見もしなかった。無造作に脇へ置き、代わりに清水月の贈り物を手に取る。
質の良さそうなベルト。
二か月かけて作ったプレゼントが、そうやって放り出される。篠原霧音の心臓は氷水に沈められたように冷たく、痛んだ。
来る前から分かっていた。歓迎されるはずがない。
それでも来たのは、娘が自分で作ったものを、笠原灯に渡したがったから。
それでも、残るのはいつも――失望だけ。
奈々の瞳が一気に曇り、小さな口がきゅっと尖る。泣きそうなのに、必死にこらえていた。
篠原霧音は抱き寄せる。
「パパ、忙しいだけ。あとでちゃんと見てくれるよ」
笠原灯が鼻で笑った。冷たい声が刃物みたいに耳を裂く。
「こんなことで? 篠原霧音、お前は子どもをそうやって育ててるのか。ちょっとでも不満があれば、よしよししてもらわなきゃ気が済まないのか?」
清水月が隣で宥める。
「灯、まだ小さいの。教えてあげればいいわ。怒らないで」
そう言ってから篠原霧音へ、柔らかく言い添える。
「篠原さんも気にしないで。灯はいつもこうなの」
笑いそうになった。
この男がどういう人間か、今さら他人に教えられるまでもない。
篠原霧音は取り合わず、笠原灯だけを見た。
清水月に宥められたせいか、笠原灯の表情はほんの少し和らぐ。だが、篠原霧音と奈々には一度も視線を寄こさない。まるで関係のない他人だ。
会場はすぐに賑やかさを取り戻し、皆が笑って笠原灯の誕生日を祝う。
――篠原霧音と奈々だけが、置き去り。あのアルバムと同じように。
寄り添うように立つ笠原灯と清水月の、温かな「二人」の絵。
それを見ていると、思いは自然と過去へ引き戻された。
十八のとき、篠原霧音は笠原灯に出会った。
当時の彼は貧しく、湿った地下室に住み、毎日三つのバイトを掛け持ちしていた。
家族の反対を押し切って彼と一緒になり、十平方メートルにも満たない賃貸で肩を寄せ合った。
一杯のカップ麺を分け合うだけで、二人で笑えた。
十年。
笠原灯は無一文から億の資産へ。地下室から丘の別荘へ。
誰もが彼の成功だけを見て、忘れている。最も苦しかった七年、彼の隣で一歩ずつ歩いたのは自分だということを。
彼は成功した。
けれど、二人の気持ちは消えた。
手を温めてくれた少年は、もういない。
そして彼女もまた、かつての篠原霧音ではない。互いに愛を注ぎ合った日々は、まるで前世の出来事みたいに遠い。
どうして、こうなってしまったのだろう――。
宴が終わり、客たちが帰り支度を始める。
笠原灯は自然な動作で清水月のコートを手に取り、肩にかけてやった。
「送る」
清水月は微笑み、篠原霧音へ向き直る。
「篠原さん、よかったら一緒に乗って帰る? こんな時間にお子さん連れてタクシーは大変でしょ」
「結構です」
篠原霧音が答える前に、笠原灯が切り捨てた。
「こいつらは自分で帰れる」
清水月は小さく首を振り、柔らかく言う。
「送ってあげましょうよ」
笠原灯は彼女の肩を抱き、少しだけ表情を緩める。それでも言い張った。
「大丈夫だ。いつも自分で帰ってる」
秋の冷えが、じわじわ骨の髄へ染みてくる。
篠原霧音は奈々を連れて、随分歩いてようやく車を捕まえた。
家に着いたころには深夜。奈々を寝かしつけ、階下へ降りると――笠原灯がリビングのソファに座っていた。
結婚して十年。彼が家に戻ることは滅多にない。
ちょうどよかった。こちらにも言うべきことがある。
笠原灯が冷たく一瞥し、先に口を開く。
「今日みたいなことは二度とするな。子どもを連れて、ああいう場に顔を出すな」
篠原霧音は階段の途中で、静かに彼を見下ろした。胸の奥はまだ、渋く痛い。
十八から二十六まで。いちばん良い時間を彼に捧げた。
それなのに最後は、隣に立つ資格さえない。
――笑えて、惨めだ。
「笠原灯」
声は穏やかなまま、疲れきった静けさを宿していた。
「離婚しましょう」
笠原灯の瞳に驚きが走り、すぐ冷え切る。
「今度は何を企んでる? 離婚で俺の気を引けるとでも?」
篠原霧音は口元を引いた。
「本気よ」
嘲りが消え、笠原灯が一歩ずつ距離を詰める。陰気な圧が覆いかぶさる。
「今さら離婚? お前が俺に子どもを作って、結婚を迫ったときはどうした?」
「私が悪かった」
笠原灯が突然、激昂する。篠原霧音の手首を乱暴に掴んだ。
「お前が言えば離婚できるって? いいだろ、離婚だ。ならお前はその子ども連れて、手ぶらで出ていけ。一円も持ち出すな」
「パパ、ママ、けんかしないで……」
いつの間にか奈々が部屋から出ていた。しゃくり上げながら泣いている。
「奈々、いい子にするから……パパ、ママ、離婚しないで……」
篠原霧音の胸がぐしゃりと縮む。笠原灯の手を振りほどき、駆け寄って抱きしめた。
「泣かないで。ママがいる」
笠原灯は抱き合う二人を見て、冷笑する。
「よくできた子どもだな。すぐ泣く。お前と同じで、手口だけは一人前だ」
篠原霧音は顔を上げた。
「私を侮辱するのはいい。でも奈々をそう言わないで」
「間違ってるか?」笠原灯が嘲る。
「お前が手口を使わなきゃ、こいつは生まれてない」
全身の血が、音を立てて冷えた。
篠原霧音は喉を押し込み、一語一語、噛みしめるように告げる。
「分かった。手ぶらで出ていく。明日、手続きをする」
