第3章

篠原霧音は奈々を抱いたまま、友人の江口青の家の前に立ち尽くしていた。インターホンに指を伸ばしては引っ込め、結局――長いこと、押せない。

手元に残ったお金はわずか。スマホの連絡先を見ても、いま頼れそうな相手はほとんどいなかった。

笠原灯と結婚してからというもの、彼女は社交をほぼ断ってきた。毎日の中心は娘で、そしてもう一つは、笠原灯の機嫌をうかがうこと。どうにかして、昔みたいに戻りたかった。

けれど家の料理は、温め直してはまた冷める。

心も、同じだった。

待っても待っても彼は帰らない。待つほどに、霧音だけが擦り減っていく。

気づけば、自分が壊れそうだった。

結婚は彼女を幸せにしなかった。

若い頃に恋した男と夫婦になっても、暮らしが明るくなることはなかった。

逡巡の末、霧音は小さく息を吸い、ドアを――こん、こん、と叩いた。

返事を待つ時間が、妙に心細い。

江口青は幼なじみで、いちばんの親友だった。五年前、霧音が笠原灯との結婚を押し切ったとき、二人は大喧嘩した。その後は家庭のことを理由に、霧音のほうから連絡を絶ってしまって――気づけば五年。

いまさら突然訪ねてくるなんて、厚かましいにもほどがある。

扉が開いた瞬間、江口青は霧音の顔を見て固まった。

「……え。きり?」

霧音は唾を飲み込む。

「私……泊めてもらえない?」

語尾が消えるより早く、青が霧音の腕を掴んでぐいっと中へ引き込んだ。

「ちょ、外すごい雨じゃん! なんで一人で来たの? 灯は? ケンカした?」

霧音は奈々の手を握り、唇をきゅっと結ぶ。どこから話せばいいのか分からない。

「まあ、きりちゃんが来たの?」

その声と一緒に、台所から江口奥さんが顔を出した。

霧音はそこで初めて、最近はご両親もここに滞在しているのだと知る。

「久しぶりねえ。どうしたの、ますます綺麗になっちゃって」

江口奥さんは朗らかに手招きした。

「さあさあ、座って。ちょうど晩ごはん、もうすぐできるから」

青は先に霧音を客間へ案内する。

「ここ客間で、ちょっと狭いけど我慢してね。嫌なら、夜は私の部屋で一緒に寝てもいいし」

「ううん。ここで大丈夫」

青は手際よく布団を敷き、落ち着いたところでリビングへ連れていった。

食卓で、江口奥さんが箸を伸ばす。

「ほら、奈々。成長期なんだから、お肉たくさん食べなさい」

大きな鶏もも肉が奈々の皿にのせられた。

「ありがとう、おばあちゃん!」

奈々はにぱっと笑う。

「まあ、いい子ねえ」

江口奥さんは目尻を下げて、霧音を見る。

「きりちゃん、ちゃんと育ててるのねえ」

霧音は曖昧に微笑んだ。

そこへ江口当主が、ふいに口を挟む。

「きりちゃん、こんな遅い時間に来たってことは、笠原社長は知ってるのか? 聞いたぞ、最近また大きな案件を取ったそうじゃないか。若いのに大したもんだ」

そして含みを持たせるように続ける。

「うちのほうも最近はなかなか厳しくてな。笠原社長みたいな相手と組めたら、ずいぶん助かるんだが」

霧音は箸を握る手に力を込めた。

言いたいことは、痛いほど分かる。

彼らが親切なのは、自分が「笠原奥さん」だから。

でも霧音は、笠原灯の前ですら何も言えなかった。今さら、何ができるというのか。

霧音は箸を置き、低い声で言った。

「おじさん、おばさん。私……笠原灯と離婚することになりました。今日、家を出て……行くところがなくて。青に、迷惑をかけに来ました」

江口当主も江口奥さんも、笑顔がぴたりと固まった。

次の瞬間、江口奥さんが箸を乱暴に置く。態度が、さっと冷える。

「離婚ねえ……きりちゃん。笠原社長みたいな家に、どれだけの人が縁を欲しがってると思ってるの。せっかく嫁に入れたのに、旦那を繋ぎ止めようともせず、離婚までこじらせるなんて……どれだけ役立たずなの」

「まったくだ」

江口当主の顔も曇った。

「女一人で、その上子どもまで連れて。これからどうやって生きるんだ。お荷物を抱えて」

さっきまで「いい子」だったのに。

いらなくなったら「お荷物」。

――現実は、こんなにも露骨だ。

奈々は突然の空気の変化に怯え、小さな身体を霧音の胸へ押しつけてくる。霧音は何も言い返せず、ただ娘をぎゅっと抱きしめた。

青が堪えきれず、椀を叩くように置いた。

「お父さん、お母さん、何言ってんの! きりと奈々がどんな状態か、見て分かんないの?」

青は息を荒くして言い切る。

「私から言わせれば、離婚で正解。笠原灯みたいなクズ、さっさと捨てたほうがいい」

それから霧音に向き直り、声を落とした。

「きり。うちの親、口が悪いだけだから。気にしないで。ここにいなよ。好きなだけ」

胸の奥が、じんと温かくなる。

「ありがとう、青。でも……長くは居ない。すぐ仕事と部屋を探して、見つかったら出ていく」

夜。

霧音はシャワーを浴び、奈々を抱いて布団に入った。

慣れない寝床に奈々はもぞもぞと動き、なかなか寝つけない。

しばらくして、か細い声が耳元に落ちた。

「ママ……パパ、奈々のこと、好きじゃないの?」

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