第6章

翌日、篠原霧音はショッピングモールへ向かった。自分のために、きちんとしたスーツを買うためだ。

HYのような大企業では、第一印象がそのまま入場券になる。

鏡の中の彼女は、細い腰にしなやかなライン。血の気は薄いのに、そのぶん、冷えたガラスみたいな儚さがまとわりついていた。

店を出た瞬間、背後から穏やかな男の声がかかった。

「篠原霧音?」

霧音は振り返る。

そこに立っていたのは、仕立てのいい濃いグレーのスーツに、金縁の眼鏡。柔らかな物腰の、いかにも知的な雰囲気の男だった。

霧音は一瞬きょとんとして、それから記憶がぴたりと重なる。

「古川先輩……?」

古川司真は浅く笑った。

「やっぱり君か。さっき後ろ姿が見えて、似てるなって。人違いだったらどうしようって思ってた」

「先輩……お久しぶりです」

霧音はぎこちなく笑う。

大学時代の古川司真は有名人だった。卒業後は起業し、数年で業界の新星にまで登りつめた男。

それに比べて、自分は――結婚という泥沼の中でもがいているだけ。

「買い物?」

古川の視線が、霧音の手にある紙袋へ落ちる。目が優しい。

霧音は首を横に振った。説明は最小限にする。

「午後、HYの面接があって……スーツを買いに来ました」

「面接か」

古川は一拍置き、余計な詮索はせずに言った。

「HYは確かにいい会社だね。君が嫌じゃなければ、履歴書を一通、俺にも送ってくれない? 少し口を利けるかもしれない」

意外で、胸の奥がふっと温かくなる。

「ありがとうございます、先輩」

そのときだった。

「霧音姉さん?」

驚いたような声とともに、清水月が笠原灯の腕に絡みつきながら、こちらへ歩いてきた。

灯は、古川の顔を見た瞬間に表情を陰らせる。空気が、ひやりと冷えた。

月の視線が霧音と古川を往復し、口元を手で覆って、信じられないと言いたげに問いかけた。

「もしかして霧音姉さん、灯と離婚したがってたのって……この人がいるから?」

「……あっ、私、勘違いしちゃったのかな……」

灯の目が冷たく細まる。

「なるほどな。たいした能力もない専業主婦が、どうしてそんなに離婚を急ぐのかと思えば――次の寄りかが見つかったってわけか」

霧音は唇を強く噛み、言い返そうとした。

だが先に、古川が落ち着いた声で口を開く。媚びず、怯まず、静かに。

「偶然会っただけです」

それから、灯と月のほうを真っ直ぐ見て続けた。

「篠原霧音は大学時代、学科で成績一位を取り、国家奨学金も獲っている。仕事を探していると聞いたなら、手を差し伸べるのは当然でしょう」

「長いこと埋もれていた真珠です。そろそろ、光る番だ」

霧音は古川に、感謝を込めて視線を向けた。

灯は鼻で笑い、冷気をまとったまま言い放つ。

「篠原霧音。こっちへ来い」

「忘れるな。俺たちはまだ離婚してない」

そう言って、灯が霧音へ手を伸ばす。

霧音は反射的に後退した。だが――背後の手すりに足を取られる。

「……っ!」

身体がぐらりと傾き、次の瞬間、床へ叩きつけられた。どん、と鈍い衝撃。痛みで息が詰まり、霧音は思わず冷たい空気を吸い込む。

「お姉さん!」

月が悲鳴を上げ、助け起こすように身をかがめた――が、細いヒールのつま先は、霧音の手の甲へ狙いを定めている。

「お姉さん、どうしてそんなに不注意で……」

そのまま踏まれれば、手が終わる。

だが、ヒールが落ちるより早く。

大きな手が月の腕をつかみ、乱暴に引きはがした。

「どけ!」

古川司真の声に、怒気が混じる。

月はよろけて後ろへ数歩下がり、灯がとっさに支える。

古川は低く言い切った。

「次に霧音へ手を出したら、警察を呼びます」

灯の頬が引きつり、目元がさらに冷える。周囲の温度が、体感で下がった気がした。

「篠原霧音。もう一度聞く。俺と来るのか?」

霧音の瞳は痛みでうるみ、白い顔に、消えない意地だけが残っている。

「……行かない」

灯は冷笑し、顔色を底まで落とした。

「後悔するな」

そう言い捨て、灯は月を抱くようにして大股で去っていった。

古川がしゃがみ込み、霧音の足首を慎重に確かめる。

「擦りむいてる。歩ける?」

霧音はそっと動かした。痛みで冷汗が噴き出す。

「大丈夫です……骨はたぶん」

「無理するな」

古川は息を吐く。

「薬と絆創膏を買ってくる。ここで待ってて」

古川がドラッグストアへ向かったのを見送り、霧音は時間を確認した。

このまま待っていたら、面接に間に合わない。

霧音は古川へ短いメッセージを送り、痛みをこらえながらエレベーターへ向かった。足を引きずるたび、足首がじくじくと悲鳴を上げる。

HY・テクノロジー 人事部。

たどり着いた頃には、額に冷汗がびっしり張りつき、顔色は紙のように白かった。

「面接に来ました。篠原霧音です」

受付の女性が奥を示す。

「中へどうぞ。木下課長がお待ちです」

霧音は深呼吸し、扉を押し開けた。

室内には三十代半ばほどの女がいた。濃いメイクに、組んだ脚。爪をいじりながら、霧音が入ってきても目も上げない。

「篠原霧音?」

「はい。木下課長、よろしくお願いいたします」

霧音が履歴書を差し出す。

だが木下は受け取らず、向かいの椅子を顎で指した。

「座って」

霧音が腰を下ろそうとした、その瞬間。

木下がふっと嘲るように笑い、甲高い声を突き刺してきた。

「なに、その格好」

遠慮なく視線を這わせる。商品でも値踏みするみたいに。

「HYを、どこの三流会社だと思ってるの?」

木下の目は露骨な軽蔑で濁っていた。

「面接に来たの? それとも男を引っかけに来たの?」

霧音は言葉を失う。

「……これは、正規のビジネススーツです」

「口答え?」

木下が机を叩き、声を跳ね上げた。

「私が不真面目だと言ったら不真面目なの! 履歴書の空白も長いし。どうせ誰かの愛人でもやってたんでしょ?」

霧音の掌が、きゅっと握りしめられる。

面接じゃない。最初から潰しに来ている。

木下は霧音の靴――転んだときに付いた灰を見つけ、にやりと笑った。

「靴も汚い。拭いてきて。それから入り直して面接しなさい」

霧音は冷たく笑った。

木下をまっすぐ見据える。

「面接者に根拠のない中傷を浴びせるのが、HYの企業文化なんですか?」

「だったら、こちらからお断りします」

そう言うや否や、霧音は机の履歴書をひったくるように掴み、踵を返した。

隣のトイレへ入り、古川に連絡を入れようとする。

個室へ入った途端、外から木下の通話の声が聞こえてきた。

さっきまでの威圧的な口調とは別人のように、媚びた甘さが混じっている。

「もしもし? 清水さん? 例の篠原霧音、さっき来ましたよ」

霧音の身体が、ぴたりと固まった。

清水月――。

だから、あんな露骨な敵意だったのか。

霧音は震える手でスマホを取り出し、録音を起動する。

「ご安心ください、たっぷり恥をかかせました。ああいうモラルのないクズ、HYに入れるわけありませんから。あとで業界に回しておきますよ、どこも採用しないようにって……」

通話が終わる気配。

霧音は個室の扉を押し開け、外へ出た。

鏡越しに霧音の顔を見た木下が、ぎょっとして振り返る。

「……あんた、帰ったんじゃないの?」

霧音はスマホを掲げ、冷ややかに告げた。

「木下課長。今の電話、全部録音しました」

木下の顔色が変わる。

「……なにが言いたいの?」

「私が何を言いたいかは問題じゃありません」

霧音は一歩ずつ距離を詰めた。冷たい視線が逃がさない。

「HYは知ってるんですか? 人事課長が、面接者にあんな対応をして、しかも外部の人間と結託して採用妨害までしているって」

木下は明らかに焦りを滲ませた。

中間管理職にすぎない。騒ぎになれば、ただでは済まない。

そのとき、廊下の向こうから楽しげな談笑が聞こえてきた。

「笠原社長、こちらへ。太田部長がすでにお待ちです」

木下の目が、ぱっと光る。まるで救世主でも見つけたように。

木下は霧音を乱暴に押しのけ、廊下へ飛び出した。

そこには、笠原灯が清水月を連れ、HYの幹部らしき数人と和やかに話している姿があった。

木下が飛び出してきて、全員が一瞬、動きを止める。

木下は霧音を指さし、大声で喚いた。

「この女、頭おかしいんです! 会社に居座って、スマホで企業秘密を盗撮して、ネットに流すって脅してきて!」

灯は霧音を見た途端、眉間に深い皺を刻んだ。

「篠原霧音……どこまで恥知らずなんだ。俺を尾行して、ここまで来たのか?」

「後悔して、やり直したい? 遅いんだよ」

月は灯に寄り添い、か細い声で続ける。

「お姉さん……灯の気を引きたいからって、盗撮はダメだよ。灯の顔に泥を塗らないで……」

木下は後ろ盾を得た途端、背筋を伸ばし、露骨に得意げになった。

そして霧音の前へずかずか歩み寄ると、手を振り上げ――

平手打ちを放った。

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