第1章

「3時間後にはH市に着くんだけど、あなた、空港まで迎えに来るべきじゃない?」

二谷夜子は隙のないメイクを施し、目を射抜くような真紅の背中の開いたタイトドレスに身を包んでいた。豊かな胸元は今にもこぼれそうで、細い腰の下では、丸みを帯びてきゅっと持ち上がったヒップラインが、しなやかな足取りに合わせてかすかに揺れる。

航空会社のVIPラウンジへ足を踏み入れた瞬間、その攻撃的ですらある美貌と肢体が、周囲の視線を一気にさらっていった。

けれど本人は、自分に集まる熱い眼差しなど意にも介さず、電話の向こうへ続ける。

「もう最悪。さっきひと通り見て回ったのに、気に入るワンピがぜんぜんなくて……」

言い終える前に、ふっと唇を吊り上げて通話を切る。次の瞬間、視線は寸分の狂いもなく、正面のソファに座る一人の男へと定まった。

背は高く、身体つきはすらりと伸びている。整いすぎて妖しささえ漂う顔立ち。骨の芯からにじむような気高さと冷たさが、見る者の目を奪って離さない。

藤原右京――藤原家の若様。そして、彼女の恋人である江原和直の叔父にあたる男。

二谷夜子の口元の笑みがいっそう深くなる。そのまままっすぐ、彼のほうへ歩き出した。

隠す気のないあからさまな視線に、ラウンジの空気が一瞬で何かを察する。

だから彼女が近づいた途端、正面にいた若い男がすばやく立ち上がり、行く手を遮った。

「申し訳ありません。社長はお仕事中ですので」

手慣れた断り方だった。普段から相当、こういう相手に声を掛けられているのだろう。

「そうなの?」

二谷夜子は目を伏せ、長い睫毛で頬に淡い影を落とす。そこへわざとらしいほどの無垢さをひとさじ添えてみせた。

ノートPCから目を離そうともしない男へ、視線だけを流す。けれど紅い唇には、ゆっくりと艶めいた笑みが浮かんでいく。

そのまま彼女は、自分を遮る男へするりと身を寄せ、甘い吐息を落とした。

「でも、私……あなたの社長に会いに来たんじゃないの。あなたに会いに来たの」

肩へそっと手を置き、指先でスーツの織り目をなぞる。淡い香水の匂いが強引なほど鼻先を満たし、温かな息が頬をかすめた。

若い秘書は、日頃から社長のそばでさまざまな修羅場を見慣れているはずだった。けれど二谷夜子のあまりに直截な誘惑を前に、頬がふっと赤く染まる。

彼は慌てたように大きく一歩退き、どうにか平静を取り繕いながら、どもるように言った。

「ぼ、僕……あなたのこと、知りません」

社長へ向かう火の粉を払うのは得意でも、自分に降りかかると途端に弱い。そんなわかりやすい反応だった。

二谷夜子は喉の奥でくすりと笑う。

それから、座ったままの藤原右京へ目を向けた。

周防充の異変に気づいたのか、藤原右京はようやく顔を上げ、二谷夜子を一瞥する。

ほんの一瞬、わずかな驚き。だが次の瞬間には、視線は冷たく別の場所へ流されていた。

全身から近寄るなという拒絶がにじんでいる。それでも二谷夜子はまるで気にしない。

ハンドバッグから名刺を取り出し、優雅な仕草でゆっくりと身をかがめた。

深く開いた胸元がさらにあらわになり、白い谷間がくっきりと強調される。

彼女はその名刺を、藤原右京のスーツの胸ポケットへそっと差し込み、濡れたような声で囁いた。

「はじめまして……で、いいかしら?」

身体に張りつくドレスは、彼女の凄まじい曲線を隠しきれない。腰からヒップへかけての丸みは赤い布地の下でぴんと持ち上がり、弾けそうな色香を漂わせていた。

藤原右京が冷ややかに言い放つ。

「興味ない」

「私があるんだから、それで十分」

二谷夜子は熱を帯びた目でまっすぐ見返し、瞳に媚びるような光をにじませる。名刺が完全にポケットへ収まるのを見届けてから、ようやくゆっくりと身を起こした。

それから、少しだけ落ち着きを取り戻した周防充の前へ移動し、顔をなぞるような視線を絡める。

「ねえ……電話番号、教えてくれない?」

周防充は反射的にぶんぶんと首を振る。拒絶の言葉が口をつく前に、二谷夜子はふいに身体ごとぴたりと寄り添った。

掌で彼の手を包み込み、優しいふりをしながら、有無を言わせぬ力でスマホを抜き取る。

周防充の頭は真っ白になった。

ただ見ていることしかできないまま、二谷夜子は彼の指でロックを解除させ、素早く自分のLINEを登録し、そのまま自分の番号へ発信して履歴まで残す。

にっこり笑ってスマホを返しながら、彼女は軽やかに言った。

「ありがと。もし社長に怒られてクビになったら、私に電話してね。もしかしたら、社長にひと言くらい口利きしてあげられるかも」

そう言いながら、目尻をすっと上げて、藤原右京のほうへわずかな挑発を向ける。

本人の連絡先が手に入らなくても、秘書のものさえあれば、間接的にいくらでも探れる。

二谷夜子が満足げに少し離れた空席へ腰を下ろして、ようやく周防充は顔を赤くしたまま、情けない目で上司を見た。

藤原右京は淡々と一瞥を寄越しただけで何も言わず、再びノートPCの報告書へ視線を戻す。先ほどの一連の出来事など、取るに足りない瑣末事だったとでもいうように。

二谷夜子はラウンジの端で、じっと藤原右京の背中を見つめた。

なぜか喉が渇く。

十七の頃、彼女は藤原右京に、ほんの少しだけ恋をしていた。

かつて両親の頼みで、藤原右京がしばらく彼女の家庭教師をしていたことがあるのだ。

名門の一族が集う世界でも、藤原右京は冷たく冴えた秀才として有名だった。

両親も藤原家の母親に頭を下げて、ようやく彼に、出来の悪い娘を見てもらえることになった。

ある日、大学入学共通テストの問題を教わっている最中、彼女は何でもないふうを装って探りを入れた。

「藤原先生。クラスの子が先生のこと好きみたいで……どんな子がタイプか聞いてほしいって」

藤原右京は、そんな腹の内など最初から見抜いていたのだろう。淡々と告げた。

「少なくとも、お前みたいなのじゃない」

そのひと言で、二谷夜子は彼に教わるのが急に気まずくなった。結局、家庭教師は別の人間に替えた。

そして今日、藤原右京は彼女の狙う相手でもある――星空グループの現社長。

星空グループは世界三大製薬コングロマリットの一角を占め、国内外に広大な事業網を持っている。医薬品だけでなく、アパレル、ホテル、エンタメまで幅広く手を伸ばしていた。

本当は、自分だと気づかれるのが怖かった。

けれど、どうやら考えすぎだったらしい。

年月も経った。顔立ちも細かな施術と入念なメイクで、昔とはほとんど別人だ。

それに、あんなふうに頂点へ立つ男のまわりには、いつだって女が群がる。自分のことなど覚えているはずがない。

そもそもあの頃だって、藤原右京は最初から彼女を眼中に置いていなかった。

二谷夜子は胸の内で自嘲し、艶やかな顔に冷えた笑みを浮かべる。

本音を言えば、藤原右京とはもう関わりたくなかった。

けれど七年前の血塗られた恨みが、昼も夜も彼女を焼き続ける。

自分の家が莫大な費用を投じて開発した新薬の処方を奪うため、周防雨子は手下を引き連れて押し入り、父を殴り殺した。

母は彼女を連れて必死に逃げた。だが車に挟み込まれた末に川へ落ち、娘を守るために――母もまた死んだ。

連中は、彼女がそのまま水の底で死んだと思い込み、悠々と立ち去っていった。

もともとは、周防雨子の婚約者である江原和直を利用して復讐するつもりだった。

けれど江原和直は、想像していた以上に下劣で、役立たずだった。

あの尊大な令嬢に血の報いを受けさせるには、周防家を上回る権力が要る。つまり――藤原家。

搭乗の際、二谷夜子はまたしても、藤原右京と同じ便だと「偶然」知った。

「わあ、すごい偶然。LINE見たの。周防充っていうんでしょ?」

驚いたふうに微笑みながら、二谷夜子はまっすぐ周防充を見つめる。

そのあまりに露骨な目つきに、周防充は嫌な予感で胃のあたりが重くなった。

二谷夜子の視線はそのまま大胆に、周防充の隣にいる藤原右京へと滑っていく。

けれど藤原右京は相変わらずの無表情で、目の端の視線ひとつ寄越さない。

その隣には、六十を過ぎたらしい老人が腰掛けていた。

二谷夜子は間髪入れずに次の手へ移る。

老人の前までしとやかに歩み寄ると、たちまち愛らしい表情へ切り替えた。無垢そうな大きな瞳をぱちぱちと瞬かせ、甘えるような声で頼み込む。

「おじいちゃん、席、替わってもらえませんか? 夫とケンカしちゃって……今、全然口きいてくれないの。隣に座って、機嫌直したいなって」

老人は藤原右京の冷えた横顔を見て、事情を察したようににやりと笑う。

「はは、そうかそうか」

上機嫌で立ち上がって席を譲ると、ついでとばかりに藤原右京の肩をぽんぽんと叩き、言い聞かせるように言った。

「若いの。男ってのは器が大事だぞ。奥さんに意地なんか張るもんじゃない。こんなべっぴんさん、逃がしたらもったいない」

二谷夜子は得意げに藤原右京の隣へ腰を下ろす。

すると藤原右京はようやく横目を向け、氷みたいな声で言った。

「言ったはずだ。君に興味はない」

「私も言ったでしょ。私があなたに興味あるんだから、それでいいの」

二谷夜子はまるで意に介さず、ふくよかな唇に誘惑めいた弧を描く。

藤原右京は顔色ひとつ変えない。

「恋人がいる」

「恋人でしょ。奥さんじゃないし。それに、私、別にあなたを奪いたいわけじゃないの」

そう囁きながら、二谷夜子はさらに身を寄せる。豊かな胸元が彼の腕に触れそうなほど近くまで。

熱い息が、ふっと彼の首筋を撫でた。

「だって私……欲しいのは、あなたの身体だけだもの」

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