第2章

その声は極限まで落とされ、掠れた磁性を帯びていた。羽で心臓をくすぐられるみたいに、ぞわりと痒い。

藤原右京はわずかに動きを止めたが、二谷夜子には取り合わない。テーブルの雑誌を手に取り、ぱらりとページを繰った。

無反応でも夜子は苛立たず、勝手気ままにスマホを弄りはじめる。

それからの彼女は、まるで別人だった。妙な奔放さが影を潜め、行儀よく、静か。

映画を観たり、窓の外の景色を眺めたり。時折、目を閉じてうたた寝もする。

機内でできることは一通りやり尽くしたくせに、藤原右京へは二度と仕掛けてこない。

むしろ警戒していた右京のほうが、神経を張り詰めたまま眠れなかった。

本を読み込むふりをしながら、耳だけはずっと、夜子の気配を拾っている。

やがて、規則正しい寝息が聞こえた。

右京はそっと顔を向け、黙って彼女を見た……。

整った顔立ち。眠っていても、信じがたいほど美しい。

濃く長い睫毛が伏せられ、桃花眼を隠している。鼻筋は通り、桜色の薄い唇はふっくら柔らかそうで――。

機内は冷えるのか、彼女は上着を羽織っていた。

だが、ゆったりした布の下でも身体の曲線は隠しきれない。胸が呼吸に合わせて小さく上下し、掴めそうなほど細い腰から、豊かに持ち上がったヒップへと繋がる線が、シートに甘い弧を刻んでいた。

静かな寝顔は、世間知らずの天使みたいに無垢で――それでいて、男の視線を奪うには十分すぎる。

清純そうな顔をして、振る舞いは娼婦じみている。

藤原右京は目を細め、瞳を沈めた。ページを押さえる指に力が入り、関節が白くなる。

深く息を吸って、無理やり心を鎮める。

二谷夜子が夢からゆるゆると覚めた時、機体はすでに滑らかに着陸を終えていた。

彼女は右京の開いたページをちらりと見て、ふっと低く笑う。

「Vengeance is mine, saith the Lord; I will repay」

ついさっき自分が読み終えた一文を、そのまま口にされて、右京は反射的に顔を上げた。

夜子の表情には露骨な嘲りがあった。先ほどまでの熱や放埓さは消え、代わりに深い影と、冷えた悲しみが滲んでいる。

本の余韻のせいか、右京には彼女が薄い哀しみの膜をまとっているように見えた。

言葉を出す前に、夜子がゆっくり身を寄せてくる。淡い甘い香りが、また鼻先に絡んだ。

彼女は名刺をもう一度、右京のスーツの胸ポケットへ押し込み、挑発するみたいに言う。

「また捨てるなら、秘書に頼んでね。唇の跡つけたから、あなたの手が汚れたら嫌でしょ」

右京の視線が、思わず彼女の唇へ落ちる。瑞々しく、薔薇みたいに赤い。

夜子はくすりと笑い、指先をポケットから胸元へ滑らせた。ネクタイをつまみ、ゆっくり唇へ寄せて――かすかに痕が残るほどの口づけを落とす。

「間違えた。唇の跡、ここ。これも捨てた方がいいよ」

そう言い残し、夜子は背を向けた。颯爽としているのに、どこか決然とした背中。

その後ろ姿を見送りながら、周防充は息を呑んで恐る恐る手を差し出す。

「藤原様……ぼ、僕が、捨ててきます」

藤原右京は灰色の暗紋ネクタイにくっきり残った赤い痕を見下ろし、少し黙った。

だがネクタイは外さない。胸ポケットから名刺だけを取り出す。

周防充に渡す直前、伏せた目で一度だけ文字を追った。

二谷夜子。

* * * * * *

ほどなくして、二谷夜子は晩餐会でまた藤原右京に会った。

「夜子。すげえ重要な人に会わせる」

江原和直が、意味深に口角を上げる。

夜子は柳眉を持ち上げた。

「誰? もったいぶって」

和直は答えず、夜子の手を握り直して足を速める。

華やかな主ホールを抜け、巨大な展望テラスへ。足元には宝石みたいな街灯り、頭上には深い夜空。

ガラス柵の前に藤原右京が立っていた。片手をスラックスのポケットへ入れ、もう片方にグラス。夜の闇に溶けるような背中から、近寄りがたい冷気と矜貴さが漂う。

和直は夜子を連れて男の前へ行き、親しげに腰へ腕を回した。

「おじさん、ご紹介します」

それから夜子を見下ろし、甘く言う。

「二谷夜子。俺の彼女」

藤原右京はゆっくり振り返った。

深い視線が和直を越え、夜子へ冷たく落ちる。

和直は嬉しそうに続けた。

「夜子、俺のおじさんだよ。藤原右京。挨拶して」

夜子はしなやかに歩み寄り、腰を揺らす。スカートの裾の奥で脚がちらつき、ヒップラインが小さく震えた。

甘く柔らかな声で告げる。

「藤原様、こんばんは~」

おどけてぱちりと瞬きをひとつ。清純な顔が、一瞬で色香を帯びる。

藤原右京は一瞥し、和直へ軽く嘲る。

「婚約者がいるのに、彼女?」

和直は気まずそうに口ごもった。

「夜子は知ってます。周防雨子とは政略の……俺の心には夜子だけです」

和直の視線を受け、夜子は望まれた通りに頷く。

「和直の心に私がいれば、それでいいの。名分なんて気にしない」

項を少し垂らし、白い首筋を見せる。従順で可憐な仕草。

和直は感動したような顔をした。

藤原右京は、その芝居じみた甘さに口元を歪め、冷笑を刻む。

その時、和直のスマホが唐突に鳴った。

彼は申し訳なさそうに夜子へ目配せし、画面を確認する。

二谷夜子の目に一瞬映った表示――『小野猫』。

胸の内で冷たく笑う。正体はわかっている。

和直の秘書、鈴木撫子。

和直は少し離れて電話に出て、数言交わすと、罪悪感の顔で戻った。

「夜子、ごめん。会社の件がやばくて、今すぐ戻らないと」

夜子は分かっていた。『小野猫』がまた何かしたのだろう。

それでも優しく微笑む。

「こんな時間までお仕事、大変だね。身体、気をつけて?」

――心の中では呪っていた。そのまま小野猫のベッドでくたばればいい。

和直は名残惜しそうに夜子の手を握り、藤原右京へ恐る恐る言った。

「おじさん。こんな時間に夜子を一人で帰すの、心配で……送ってもらえませんか」

言った瞬間、後悔した顔になる。右京が人に煩わされるのを嫌うと知っているからだ。

だが藤原右京は、あっさり。

「いい」

その一言に、夜子は一瞬だけ目を見張り――すぐに笑みを深くした。

和直が急いで運転手に合図し、車を正面へ回させる。

黒いベントレーがホテル前に滑り込み、通りがかりの視線を集めた。

運転席には運転手。後部座席に、二谷夜子と藤原右京。

車内の空気は重い。右京はシートに身を預け、目を閉じたまま動かない。

夜子は退屈で、こっそり横目に男を盗み見た。

彫りの深い輪郭。見れば見るほど胸の奥が疼き、噛みつきたい衝動すら湧く。

だが、その艶めいた沈黙は長く続かなかった。

十五分ほどで車は緩やかに停まり、二谷夜子の住むシティタワーの前に着く。

藤原右京がふいに目を開く。

深い瞳が、夜子を射抜くように捉えた。

低く、氷みたいに冷たい声。抗えない圧が乗っている。

「二谷夜子」

夜子の心臓がどくん、と跳ねた。だが笑みは崩さない。

「はい? 藤原様、何かご用でしょうか」

「お前がどんな目的で和直に近づいたかはどうでもいい。俺に取り入って、何を得たいのかもな」

右京はゆっくり顔を傾け、鋭い視線で覗き込む。魂の芯まで見透かされるみたいに。

「くだらない幻想は、今すぐ捨てろ」

身体をわずかに前へ。たったそれだけで、空気が狭まる。夜子は一瞬、息が詰まった。

右京は彼女を見据え、言葉を選ぶことなく、はっきりと告げる。

「俺を算段に入れた女は、前にもいた。結末は悲惨だったぞ――骨まで砕いて、灰になるまでな。お前も肝に銘じておけ」

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