第5章

二谷夜子は目を細め、「彼はそもそもあなたを愛していない」という文字をじっと見つめた。長く反った睫毛がかすかに揺れ、瞳の奥の感情をそっと覆い隠す。

――露骨だ。

あの「小野猫」が、縄張りを誇示しているのは明らかだった。

二谷夜子はふっと口角を上げ、淡い笑みを浮かべる。瞳に小狡い光が走ったかと思うと、写真と動画を手早く保存した。

まさに、棚からぼた餅。

カチャリ、と浴室のドアが開く。湯気と一緒に、男の気配が流れ出した。

藤原右京が、裸のまま出てくる。彫刻みたいに整った筋肉の線を、水滴がゆっくり伝い落ちていった。

彼はベッドボードにもたれている二谷夜子を淡々と一瞥する。その目は、そこにあるのが女ではなく、取るに足らない置物でもあるかのようだった。

身をかがめ、床に落ちた衣類を拾い上げる。いちばん内側の下着から、順番に――やけに丁寧に、やけに冷たく。服を体へ通していく所作は優雅で自然なのに、近づきがたい温度だけが際立っていた。

二谷夜子は瞬きもせず、その男を眺めていた。視線はあからさまに、値踏みではなく鑑賞だ。

指に挟んだ煙草のことすら忘れている。灰がじわじわ伸び、今にも落ちそうに揺れた。

藤原右京がズボンを持ち上げたところで、二谷夜子はようやく我に返る。――大事な用件を思い出したのだ。

煙草を揉み消し、細く長い指でスマホを差し出す。声は甘ったるく媚びるように。

「藤原様ぁ、連絡先、教えて? これから連絡取れたほうが便利でしょ?」

藤原右京はファスナーを上げ、ゆっくりベルトを通して留める。低い声は、感情の欠片もなく冷え切っていた。

「必要ない」

二谷夜子が引くはずもない。潤んだ大きな瞳をぱちぱちさせ、無垢と困惑を丸ごと貼りつける。

「どうしてぇ? さっきまで、あんなに……楽しかったのに。急にそんな、他人行儀?」

藤原右京は冷えた表情のまま、探るような目を向ける。

「知り合いでもない」

彼にとっては、そういうことだった。初めてのくせに、再会した途端に自分からベッドへ転がり込んでくる。――目的があるとしか思えない。

二谷夜子は、彼がシャツを羽織り、ボタンを留めようとした瞬間を見計らった。

小さな足を持ち上げ、そのまま彼の固い腹筋へ――ぴたり。すり、と撫でるように動かす。

さっき、ここを噛んだ。歯形だって、まだ残っている。

藤原右京の瞳が一瞬だけ止まる。大きな手が彼女の足首を掴み、ぐっと身を屈めた。濃い男の匂いが一気に覆いかぶさる。

二谷夜子は、その手からするりと逃げた。軽く、妖しく。伸びやかな脚を彼の厚い肩に預ける。

「知らない仲、なの?」

純情ぶった目で、しかしどこまでも誘うように藤原右京を見上げる。舌先で唇をそっと舐め、甘く囁いた。

「さっき、私のこと抱いて……ここ、狂ったみたいにキスしてたときは」

人差し指を持ち上げ、布団の陰にちらつく豊かな胸元を、ちょん、と指し示す。

「親密そのものだったじゃない。ねぇ? それで『知らない』って、ひどくない~」

藤原右京は目を伏せる。視線は、彼女の滑らかな肌に散った赤い痕へ落ち――暗く沈んだ。

次の瞬間、手のひらで彼女の後頭部を持ち上げる。顔が引き寄せられ、鼻先が触れ合う距離。

唇と唇の隙間は、あと1cm。

少し動けば――また、さっきの続きに戻れる。

二谷夜子は男の深い瞳を見つめ、息が詰まった。心臓が、どくん、どくん、と落ち着かない。目尻をきゅっと上げ、視線だけで春の色を匂わせる。

藤原右京が、ふっと鼻で笑う。

「そんなに卑しいのか」

身を起こし、見下ろす。

「自分から股を開いてきたんだ。俺は責任なんて取らない。得しかないだろ」

二谷夜子が言葉を失った、その耳元へ。藤原右京はさらに低く、嘲るように囁く。

「俺のベッドに潜り込めば、何か手に入ると思ったか。金? 地位? それとも俺が特別扱いでもするって? 無駄だ。そうやって自分から脚を開いて擦り寄る女は腐るほど見てきた。娼婦より少しマシな――ただの玩具だ。少しは自分を大事にしろ。みっともないだけだぞ」

嘲りに満ちた声が、二谷夜子の顔から血の気を奪う。

冷笑を刻んだ藤原右京の顔を見て、胸の奥がきゅっと縮み、痛みが走った。

――そうだ。自分から倒れ込んだのは自分だ。今さら何を、被害者みたいに。

二谷夜子は口元を引きつらせ、必死に平静を貼りつける。

分かっている。顔も体も悪くない。藤原右京に欲情はある。けれど、それだけ。

眼の肥えた男の周囲には、女が群がる。いちいち一人のために立ち止まるはずがない。

ほどなくして藤原右京は身支度を整え、いつもの矜持と禁欲を纏い直した。さっきの熱が、ただの幻だったみたいに。

背を向け、出ていこうとした、その瞬間。

二谷夜子がふいに口を開く。投げやりで、妖艶で、どこか楽しげに。

「ちょうどいいわ」

藤原右京が振り返る。二谷夜子は、もう笑っていた。目には遊びの色。

「私にとっても、あなたは都合よく転がり込んできたの。浮気者の甥っ子に仕返しするための――道具、それだけ」

言い切って、挑むように顎を上げる。気だるい口調が、余計に人を苛立たせた。

藤原右京の足が止まる。顔色が、じわじわと沈んでいく。

「二谷夜子。俺を怒らせるな。さもないと――」

「さもないと、何? 私を殺す?」

二谷夜子は容赦なく遮り、嘲るように笑った。

その瞬間、藤原右京の顔に濃い嫌悪が浮かぶ。冷たく言い捨てた。

「身の程知らずだ」

大股で出ていく。

バタン、と部屋のドアが閉まった。

二谷夜子はその場に立ち尽くし、しばらく動けない。やがて、苦く笑った。

――正しい。彼の言う通りだ。自分は、身の程を知らない。

それでも、引き返す気はなかった。前がどれほど危険でも、進むしかない。

怨みがある。憎しみがある。諦めきれない。

重い扉が背後で深く閉まり、室内の淫靡も、女の嘲笑も、すべてを遮断した。

藤原右京は廊下に立つ。周囲の温度が、深夜の空気よりさらに冷えた気がした。

「甥への復讐の道具?」

何年もだ。藤原右京の前で、あそこまで無礼を働いた人間はいない。

まして、自分を使い捨ての「道具」扱いなど。

長い脚でエレベーターへ向かう。足取りは落ち着いているのに、嵐の前触れみたいな圧がまとわりつく。

扉が開き、磨き上げられた金属の壁が彼を映した。冷え切った顔。眼底に隠しきれない殺気。

地階に着く。

待機していた運転手が、すぐにベントレーの後部座席のドアを開ける。

「藤原様」

藤原右京は無言で乗り込んだ。車内の気圧が一気に落ちる。

運転手は目を合わせることすら怖くて、さっと運転席へ戻り、エンジンをかけた。

沈黙。闇に響くのは、一定のエンジン音だけ。

藤原右京は背もたれに身を預け、骨ばった指でネクタイをゆっくり緩めた。なのに、頭の中には勝手に浮かんでくる。

二谷夜子の、純情ぶったくせに欲を煽る顔。

清らかに見せながら、目尻で男を絡め取る視線。

自分の下で咲き、細い腰と丸い尻で、どうしようもなく煽ってきた身体。

崖っぷちに咲くケシの花みたいだ。息をのむほど美しく――骨まで毒だ。

目を閉じ、そして開く。瞳の奥は底無しの寒潭になっていた。

スマホを取り、秘書へ電話をかける。

「周防充」

「藤原様。ご指示を」

「一人、調べろ」

「どなたを?」

藤原右京は薄い唇を開き、区切るように名を吐く。

「二谷夜子」

周防充はスマホを握る手に力が入ったが、余計なことは一切言わない。

「かしこまりました。どのあたりを?」

藤原右京は、窓の外を流れ去る夜景を眺めたまま、温度のない声で言う。

「全部だ。人間関係も経歴も――特にここ数年」

少し間を置き、さらに低く付け足す。

「何があっても、隅まで洗え」

周防充の背筋が冷える。藤原様が女にここまで執着するなど、見たことがない。

「承知しました。すぐに手配します」

通話が終わると思った、その時。

藤原右京が幽かに、そして致命的な一言を落とした。

「昔の名前は……林原茜、のはずだ」

周防充は息を呑み、心臓が跳ねた。

林原茜――?

七年前、林原家のあの令嬢の……?

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