第7章
二谷夜子は胸の奥でぱっと顔を輝かせ、甘えるように藤原右京の胸へ身をすり寄せた。ぴたりと重なる身体。吐息まで溶け合うほど近い。
ねっとりと甘い声で囁く。
「そんなの……もちろん、どっちも欲しいに決まってるでしょ」
今の彼女は、まるで咲きたての白薔薇だった。見た目だけなら無垢で清らか。けれどその花弁の奥には、したたかな思惑が隠れている。
藤原右京には、それが痛いほどわかっていた。
この娘が自分に近づいた理由は、江原和直の裏切りに腹を立てた――それだけではない。
右京はゆっくり手を上げると、折れそうな細腰へそっと添えた。視線をわずかに落とし、作り込まれたように整ったその顔をじっと見つめる。
二谷夜子は小さな顎を上げ、彼とまっすぐ目を合わせた。緊張しているのか、呼吸は浅く熱を帯び、耳の先までほんのり桜色に染まっている。小ぶりな唇はいっそう艶めいて見えた。
「藤原様……」
媚びを含ませた、やわらかな呼び声。
だが、その声に右京の心が揺れることはなかった。
今の彼女は、あまりにも作為的だった。
昨夜見せた、あの不器用なくせに妙に生々しくて、野性の匂いすら漂わせる誘いのほうが、よほど胸に迫った。
夜子は、次の瞬間には彼が堪えきれず口づけてくるものと信じていた。
けれど――。
どんっ、と抗いようのない力で身体を突き放される。
「きゃっ!」
不意を突かれた夜子はよろめき、数歩たたらを踏んだ末、背中を強く壁へ打ちつけてようやく踏みとどまった。完璧に貼りつけていたはずの仮面に、みっともないひびが走る。
右京はそんな彼女を一瞥することもなく、乱された高級スーツの袖口と前合わせを、いかにも面倒くさそうに整えた。
それから薄い唇を開く。
「その発情したみたいな顔、反吐が出る」
冷たく、容赦なく吐き捨てると、もう振り返りもしない。長い脚でその場を去っていく背中は、どこまでも非情だった。
二谷夜子は奥歯をきつく噛みしめ、その背中を刺すように睨みつけた。拳は震えるほど強く握り締められている。
「最低な男……覚えてなさいよ。いつか絶対、自分から私の足元にひれ伏させてみせる。そうして、いいように使ってあげるんだから」
大きく息を吸い、夜子は乱れた感情をすばやく押し込めた。
何事もなかった顔で教室へ戻ると、まっすぐ江原和直のそばへ向かう。
「学長」
鈴を転がすような声で、礼儀正しく挨拶する。
彼女の姿を見た途端、学長はぱっと顔を明るくした。
「おお、二谷さん。藤原さんにぜひご紹介したくてね。こちら、うちが誇る一番の教え子、二谷夜子さんです」
鼻高々といった様子で、学長は胸を張る。
「専門職大学院の3年でしてね。論文も臨床も本当に優秀なんです。群を抜いていますよ」
藤原右京は無表情のまま夜子をちらりと見た。
その眼差しには、わずかな懐疑が滲んでいる。
「そうですか」
そっけない一言にも、学長はまったく気づかない。
「ええ。彼女の医学論文はどれも着眼点が新しくてね。学術誌にも何本も載っているんです。学生のうちから臨床と研究、その両方をここまで掘り下げられる人材はそういません。将来は間違いなく大成しますよ」
夜子が控えめに微笑み、謙遜のひと言を返そうとした、その時だった。
「当然だよ。俺の彼女なんだから、優秀に決まってる」
江原和直が得意げに笑いながら、親しげに夜子の肩を抱き寄せる。
学長は面白そうに眉を上げ、二人を見比べた。
「ほう……二谷さんと江原さんは、そういうご関係でしたか」
夜子は華やかな笑みを崩さず、さらりと答える。
「はい。お付き合いしています」
「なるほどなるほど」
学長は含みのある顔で頷いた。
「優秀なうえに、伴侶を見る目まで確かとは。実に大したものですなあ」
その瞬間、藤原右京の口元がわずかに吊り上がった。
嘲るような、ひどく薄い笑み。
小さなそれが、かえって場の空気をぴしりと裂く。
学長はようやく我に返ったように咳払いし、慌てて言った。
「藤原さん、江原さん。お急ぎでなければ、このままキャンパスをご案内しましょうか」
「ぜひ」
和直は待ってましたとばかりに頷く。
本当はずっと、夜子と手をつないで学内を歩いてみたかったのだ。恋人らしく、甘く、どこか青春めいた空気を味わいながら。
だが普段の夜子は忙しすぎた。論文に追われるか、さもなくば臨床へ出ているか。そのどちらかだった。
右京は気づかれないよう、夜子へ一瞥を投げる。
ちょうどその時、夜子も顔を上げた。
視線がぶつかる。
ほんの一瞬で通じ合う。
昨夜のことには、互いに一切触れない――そんな暗黙の了解が、そこにあった。
和直は夜子の手をしっかり握り、親指で掌をいやらしく撫でた。
それから顔を寄せ、声を潜めて囁く。
「夜子、キスしたい。どこか人のいないところに――」
夜子は頬をうっすら染め、いかにも恥じらったふうに目を伏せた。
「やだ、そんなこと言わないで。学長も……それに、あなたの叔父様もまだいらっしゃるのに」
和直がなおも言いくるめようとした、その時だった。
ぶるるっ、とスマホが鳴る。
露骨に顔をしかめながら、和直は通話を取った。
「今、取り込み中なんだ。会議は午後3時からだろ。……は? 今、医科大学にいる?」
反射的に振り返る。
視線の先から、青いブラウスにタイトスカートを合わせた女が、しなやかな足取りでこちらへ歩いてきた。腰のくびれも、裾の揺れも、いちいち男の目を誘うような女だった。
彼女は一同の前で立ち止まると、まず藤原右京へ丁寧に一礼した。
「藤原様」
右京は淡々と一瞥をくれただけで、
「……ああ」
と気のない声を返す。
女はそのまま和直の前へ移動し、恭しく言った。
「江原様。お昼に周防様との会食がございます。そろそろご出発のお時間です」
鈴木撫子。
江原和直の秘書であり――彼の『小野猫』。
和直はたちまち眉を寄せた。
「鈴木撫子。秘書のおまえが、いつから勝手に俺の予定を決めるようになった?」
撫子は少しも慌てない。
「そのようなつもりはございません。ただ、周防様は江原様にとって非常に大切なお客様ですので。会食を遅らせるわけにはまいりません」
和直はぐっと言葉に詰まった。痛いところを突かれた顔で、苛立ちを隠せない。
「……わかった。門のところで待ってろ」
「かしこまりました」
撫子は深く頭を下げる。
そして身を翻した刹那、夜子へ向けて挑むような目を走らせた。
本命の彼女だろうと何だろうと、私には敵わない――。
そう言いたげな、あからさまな視線だった。
和直は気まずそうに夜子を見た。
「夜子、俺……」
「行ってきて」
夜子はすらりと伸びた指先で、和直のネクタイを優しく整える。声音はどこまでもやわらかい。
「お仕事が一番大事だもの。私、ちゃんとわかってる」
和直はほっとしたように頷き、彼女を軽く抱きしめると、そのまま足早に去っていった。
遠ざかっていく背中を見送った途端、夜子の笑みはすっと消えた。
残ったのは、露骨な嫌悪だけ。
抱かれた箇所を、ぱんぱん、と払う。
まるで汚いものでも付着したかのように。
「鈴木撫子と切れていないと知っていて、どうして別れない?」
いつの間にか学長は離れた場所で電話に出ていた。
代わりに、藤原右京が静かに隣へ立っている。
右京は、どうしても知りたかった。
彼女は江原和直と鈴木撫子の関係を、明らかに把握している。
なのに、見て見ぬふりを続けている。
それだけでも不可解なのに、浮気の報復のためだけに、己の身体まで差し出した。
しかも初めてすら、ためらいなく使ったのだ。
代償としては大きすぎる。
夜子はふっと笑った。
咲き乱れる曼珠沙華のように、鮮やかで、どこか危うい笑み。
小首をかしげ、上目遣いで甘く言う。
「叔父様ったら、私のこと気になってきたんだ?」
語尾をわざと長く引く。
「気をつけたほうがいいわよ。男の人が女に好奇心を持つ時って、それ、恋の始まりかもしれないんだから」
その途端、右京の表情はすっと冷えた。
いつもの峻厳な仮面が、寸分の乱れもなく戻る。
「二谷さん。あなたは和直の妻ではない。私を叔父様と呼ぶのは不適切です」
低く、突き放すように言い切る。
「今後は藤原さん、もしくは藤原様と呼んでください」
夜子は、いかにも堅物ぶったその顔をじっと見つめた。
脳裏に浮かぶのは、あの夜の熱だ。
彼の手が強く腰を掴み、荒い呼吸を零しながら、自分を見下ろしていた姿。
――俺の名前を呼べ
――右京……
――もっとだ
あの時は、あんなにも深く溺れていたくせに。
今になって、呼び方を改めろだなんて。
ずいぶんと都合よく、知らぬ顔を決め込む男だ。
まったく、呆れるほど切り替えが早い。
