第8章
ちょうどそのとき、学長が一本の電話を終えて慌ただしく戻ってきた。申し訳なさそうな顔で、藤原右京に頭を下げる。
「藤原さん、誠に申し訳ありません。学内で急ぎの案件が入りまして、本日はこの先ご案内を続けるのが難しくなってしまいました」
藤原右京は眉一つ動かさず、淡々と応じた。
「構いません。学長はどうぞお仕事へ。でしたら、そちらの愛弟子に案内を任せてはいただけませんか」
学長は二谷夜子を振り返って二、三言言い含めると、火がついたようにその場を去っていった。
二谷夜子は両手をいたずらっぽく背中に回し、息を呑むほど整った小さな顔をふわりと上向かせる。水をたたえたような瞳で、藤原右京を見上げた。
その瞬間、藤原右京の瞳がきゅっと細まる。
脳裏をよぎったのは、あの夜。
自分の腕の中で、しなやかに身をよじりながら媚びるように甘えてきた、彼女の姿。
ほとんど反射で、彼は手を伸ばした。細い手首を捕まえようとした、その刹那――。
二谷夜子はまるで先を読んでいたみたいに、ひらりと一歩退く。
触れられない絶妙な距離。
顔には相変わらず、無垢で人のよさそうな笑み。
けれど、その瞳の奥では、してやったりとでも言いたげな悪戯っぽい光がきらりと瞬いていた。
この女は、本当に厄介だ。
いとも簡単に、彼の内側へ火を放り込んでくる。
そのとき、ポケットの中のスマートフォンがぶるぶると激しく震えた。
表示された名前を見て、藤原右京は目を細める。
姉――藤原月美。江原和直の母親だ。
通話に出たときには、彼の表情はもういつもの冷ややかさへ戻っていた。
「右京!」
受話口の向こうから、藤原月美の甲高く怒気をはらんだ声が響く。
「和直ったら、ほんとにどうかしてるわ。公の場で、あんな女を恋人だなんて大っぴらに認めるなんて。周防家に何て思われるか……。あなた、姉さんのためにその女を始末してちょうだい。どうしても別れないって言うなら、H市から追い出してしまって」
藤原右京は黙って聞いていた。
眼差しだけが、底の見えない闇を帯びていく。
「分かりました」
薄い唇が静かに開く。
「私が処理します」
二谷夜子は日なたで所在なげにひとり遊びでもするように、つまらなそうに時間を潰していた。
やがて電話を切った藤原右京がこちらへ歩いてくるのを見て、ようやく迎えに出る。
「藤原さん、お腹すいてません?」
二谷夜子は柔らかく甘い声で、そっと心をくすぐるように言った。
「よかったら、うちの学食の名物でもご案内しましょうか?」
藤原右京は視線を落とし、華やかすぎるほど美しいその顔を見つめる。表情は変わらず淡い。
「いや、いい。君に話がある」
そう言って長い脚を踏み出し、少し先にあるスイーツショップへ向かった。
向かいのビロード張りの椅子に二谷夜子が腰を下ろすのを見ながら、藤原右京はその顔を静かに眺める。
整いすぎた目鼻立ち。人目をさらって当然の、攻撃的なまでの美貌。
ほどなくして給仕が来ると、藤原右京はコーヒーを一杯。
二谷夜子はキャラメルプリンを頼んだ。
給仕が下がるのを待って、藤原右京はスーツの内ポケットから小切手帳と万年筆を取り出す。
長い指がさらさらと数字を書きつけ、切り離した一枚をそのまま二谷夜子の前へ滑らせた。
二谷夜子は艶を含んだ目元をゆるく揺らし、細く白い指先で小切手をつまみ上げる。
記された金額に視線を落とし――小さく眉を上げた。
1千万。
赤い唇がわずかに開く。
「へえ」
くすりと面白がるような息をこぼし、指先で小切手の端を弾いた。
そして藤原右京を見上げ、意地の悪い笑みを浮かべる。
「藤原さん、ずいぶん気前がいいんですね。これって……私への一夜のお礼? それとも口止め料?」
藤原右京は口元だけで冷たく笑った。
「買いかぶりだ。君にそんな価値はない」
二谷夜子は腹を立てるどころか、むしろ楽しそうに少し身を乗り出す。肘をテーブルにつき、頬杖をついて、無垢さと色気が同居した目で覗き込んだ。
「どうしてです? あの夜の私のご奉仕……ご不満でした?」
すっと声を落とし、吐息がかすかに彼の頬を撫でる。
「私の記憶では……藤原さん、ずいぶん気持ちよさそうでしたけど?」
あの夜の混乱と逸脱。
自分の下で咲くように乱れた彼女の姿が、一瞬で脳裏に蘇る。
藤原右京の喉仏がひとつ上下した。
瞳の色が、わずかに深く沈む。
その変化を二谷夜子は見逃さなかった。胸の内では冷たく笑いながら、表情だけはあくまであどけなく、首をかしげる。
「で、この大金で、私の何をお買い上げになるんです?」
藤原右京はすぐに気を引き締め、声から熱を削ぎ落とした。
「1千万で、江原和直から手を引け。今すぐに」
二谷夜子はおかしな冗談でも聞いたみたいに、ふっと鼻で笑う。
その顔に浮かんだのは、隠しもしない軽蔑だった。
「藤原さん、私を物乞いか何かと勘違いしてません?」
スプーンでプリンをひとさじすくいながら、さらりと言う。
「和直は私に、江原夫人の座と、自分の会社の持ち株まで約束してくれてるんです。この程度じゃ……端金にもなりませんよね?」
藤原右京の眉間にうっすら皺が寄る。
不快の色が、目の奥で濃くなった。
「強欲だな」
二谷夜子はスプーンを置いた。
そのまま身を乗り出し、藤原右京との距離をぐっと詰める。
肌にまとわりつくような、甘く妖しい香りがまたふわりと漂った。
「藤原様……」
その呼び方は、妙にねっとりと耳に残る。
幾重にも撫でるような響きだった。
「考えてみてください。もし私が本当にあなたの甥のお嫁さんになったら、手に入るものはこんな額じゃ済まないんです。なのに今さら、このくらいのお金で追い払おうだなんて」
藤原右京の顔色は変わらない。
だが目だけは氷のように冷えていた。
「愚かな夢を見るな。姉が、お前みたいな家の人間を江原家に入れるはずがない」
一拍置き、さらに容赦なく言い放つ。
「それに江原和直には、周防家の令嬢・周防雨子という婚約者がいる。お前は何だ? 日陰で弄ばれるだけの愛人にすぎない」
二谷夜子の笑みがほんの一瞬だけ固まった。
けれど次には、むしろ見せつけるような色がそこへ差す。
「でも和直は、自分には私しかいないって言ってましたよ。絶対に私を嫁にもらうって」
藤原右京は、心底くだらないものを見たように冷笑した。
「そんなもの、本気で信じたのか。股を開かせるための甘言に決まっている」
鋭く目を細める。
「二谷夜子。私の前で純情ぶるな」
とぼけ続けても無意味だと悟ったのか、二谷夜子はふっと表情を変えた。
媚びた笑みが、ゆっくりと顔から消えていく。
そして藤原右京の目の前で、あの小切手を丁寧に折りもせず、そっとバッグへしまった。
それを見た藤原右京の強張った顎の線が、ほんのわずかに緩む。
ようやく分別を弁えたか――そんなふうに思った、そのとき。
二谷夜子は顔を上げた。
そこにあったのは、愛らしさでも艶めかしさでもない。
ひどく挑発的で、ほとんど傲慢と言っていい笑み。
まっすぐに藤原右京を射抜きながら、一語一語、はっきりと言う。
「お金はいただきます。江原和直と別れる件も……考えてあげてもいいです」
そこでわざと間を置き、紅い唇をゆっくり開いた。
「でも、藤原様――甥の嫁になるくらいなら、いっそあなたが私を娶ったらどうです?」
背もたれにゆるく体を預けた姿は気だるげなのに、獲物へ爪を立てる前の獣みたいな攻撃性をまとっている。
目には、いたずらっぽく鋭い光。
「江原和直の……おばさんになるほうが、よっぽど面白そうじゃありません?」
そう言い捨てると、藤原右京の顔がみるみる険しく沈んでいくのも構わず、二谷夜子は立ち上がった。
優雅に、それでいてきっぱりと背を向け、そのまま店を出ていく。
藤原右京はしばらく、彼女の背中がカフェの外へ消えていくのをただ見ていた。
視線が、なかなか剥がれない。
周防充が店のドアを押して入ってきて、二度声をかけるまで、彼は我に返らなかった。
周防充は封をした書類袋を差し出す。
「藤原様。ご依頼の資料です」
藤原右京は袋を開け、中の紙を数枚引き抜いた。
記されていたのは、二谷夜子の完璧すぎる履歴。
二谷夜子。女。24歳。
両親はごく普通の退職労働者で、裕福とは言えない家庭。
5年前、優秀な成績でH市医科大学に入学。学業成績も群を抜き、指導教授の覚えもめでたい。
3か月前、江原和直が病気で入院した際、主治医がたまたま二谷夜子の指導教授で、そこで二人は知り合い、交際に発展した。
白紙のようにきれいな履歴だった。
ひとつひとつの経歴に裏づけがあり、綻びひとつない。
もし『林原茜』の存在を知らなければ、彼も危うく信じるところだった。
周防充はバックミラー越しに主人の表情を窺い、おそるおそる口を開く。
「藤原様……この二谷夜子ですが、身元にほころびは見当たりません。もしかすると、私たちの考えすぎでは……」
藤原右京は資料を脇へ放り、長い指で膝をこつ、こつ、と一定のリズムで叩いた。
信じるはずがない。
平凡な労働者の娘が、あれほどの計算高さと胆力を持ち、自分の前で平然と火遊びできるものか。
ただの医大生が、たった数か月で江原和直を骨抜きにできるものか。
ここまで隙のない経歴だからこそ、それ自体が最大の不自然さだった。
だが――。
藤原右京の冷えた唇に、嘲るような弧が浮かぶ。
うまく隠したつもりか。
それならそれでいい。
白兎の皮をかぶったあの女狐が、いったい何を企んでいるのか。
最後まで見届けてやろう。
この街で、どれだけ足掻こうと、彼女は自分の掌から逃げ出せない。
「周防充」
「はい、藤原様」
「二谷夜子の調査は、ひとまず打ち切れ」
周防充は目を瞬かせた。
意図が読み切れず、わずかに戸惑う。
藤原右京は窓の外へ目を向ける。
流れる夜景は眩く、けれどその眼底には底知れない冷たさと、すべてを支配する者の自負が沈んでいた。
「これ以上、無駄に手をかける必要はない」
声音は平坦。
なのに、他を寄せつけない傲然たる響きがあった。
「好きに踊らせておけ」
そして、わずかに口元を吊り上げる。
「どこまで波を立てられるのか――見ものだ」
