第3章

 修平が、私たちの新婚の家のドアを押し開けた。

 彼が見たのは、私がテーブルの上に残していった結婚指輪と離婚届だ。

 彼はそれをじっと見つめた後、写真を撮り、私に短いメッセージを添えて送ってきた。

「本気なのか?」

 私は返信しなかった。

 スマートフォンの電源はすでに切ってあった。

 後になって電源を入れ直したとき、ようやく彼からのボイスメッセージを聞くことになった。

「結衣、何を考えているんだ? まさか今日のことが原因じゃないだろうな? 俺はただ、君とお義父さんの仲を取り持ちたかっただけなんだ。十五年も意地を張り合って……本当に、一生お義父さんと会わないつもりなのか?」

「美咲さんは君が思っているほど悪い人じゃない。彼女は何度か俺に連絡してきて、罪悪感があるから君に償いたいと言っていた。本気でこの家族をやり直したいと願っていると思うんだ」

「君は少し神経質になりすぎている。終わったことをいつまでも引きずっていても仕方がないだろう。俺は君のためを思って言っているんだよ」

 彼の声は穏やかで、呆れた子供を諭すような響きすらあり、いかにも理をわきまえた人間らしい口調だった。

 まるで自分こそが理性的で、私の方が理不尽な振る舞いをしているとでも言いたげに。

 メッセージを送信した後、彼は返信を待ったはずだ。だが、何の反応もない。しびれを切らして電話をかけ直し、あの無機質な自動音声を聞いたことだろう。

「おかけになった電話は、電源が入っていないか――」

 その時になって初めて、彼は胸騒ぎを覚えたのだ。

 今回ばかりは単なる癇癪ではなく、私が本気で腹を括っているのかもしれないと、彼はようやくうっすらと察し始めたのだ。

 三日後、美咲から電話がかかってきた。

 知らない番号だった。彼女だと分かった瞬間、私は電話を切ろうとした。

 しかし、彼女の次の言葉が私を止めた。

「結衣、お母さんのあのブレスレット……私が持っているの。返してほしかったら、会いにいらっしゃい」

 あのブレスレット。

 母が生前、肌身離さず身につけていた唯一の品。蘭の花が彫り込まれた、華奢な銀のブレスレット。結婚した時も、私を身籠っていた時も、そして息を引き取るその瞬間まで、母はずっとそれを着けていた。

 まさか美咲がそれを持ち去っていたとは、思いもしなかった。

 これは罠だ。母の最後の遺品を釣り餌にした、見え透いた罠。

 それでも、私は時間と場所を尋ねた。母の最後の形見を、どうしても取り戻さなければならなかったからだ。

 翌日の午後、私は指定されたカフェに向かった。

 個室の中は静まり返っていた。美咲がそこに座っており、テーブルの上には豪奢なジュエリーボックスが一つだけ置かれている。

 私を見ると、彼女は微笑んだ。

「久しぶりね、結衣」

 私は何も言わず、ただその箱を見つめた。

 彼女が蓋を開ける。中には、あのブレスレットが横たわっていた。

「お母さんはね、あの頃、私からすべてを奪っていったの。チャンスも、学校も、結婚も。だから今、私は本来自分のものだったはずのものを、取り戻しているだけなのよ」

「私があなたの新しい母親だという事実は変えられないわ。叔母であるという血の繋がりもね。お母さんはもういないのよ。そろそろ、私のことを母親として受け入れるべきじゃないかしら」

 私は答えなかった。

 テーブルの下で、両手の爪が掌に食い込むほど強く握りしめていた。

 私は、親戚の伯母から聞かされた昔話を思い出していた。

 母と美咲は昔から正反対だったという。母は体が弱く控えめな性格だったが、成績は常に優秀だった。一方の美咲は活発で要領が良かったが、大人たちはいつも彼女に「お姉ちゃんに譲ってあげなさい」と言い聞かせていた。

 母は美咲が抱く、意識的あるいは無意識の反発を感じ取っていたのかもしれない。ケーキを切り分けるときは、いつも大きい方を美咲に渡した。もらい物を分けるときも、必ず美咲に先を選ばせていた。

 だが、美咲にとってそれはすべて施しでしかなかった。

 やがて、二人は同じ名門校を受験した。合格枠は一つだけ。受かったのは母だった。

 美咲は固く信じて疑わなかった――自分の席は、姉に奪われたのだと。

 その後、母は誠一郎と結婚した。事業で成功を収め、洗練された穏やかな人柄で、冬木家の当主でもある男と。

 美咲は結婚式の会場の片隅に立ち、その様子を冷ややかに見つめていたという。

 伯母の話では、その夜、美咲はひどく酒を飲んで泣き喚いていたそうだ。

「どうしてあの人ばっかり全部持っていくの? あの人にそんな資格があるっていうの?」と。

「あなたのお母さんは、生涯あの人に譲り続けてきたのよ」伯母はそう言ってため息をついた。

「でもね、世の中にはそういう人間もいるの。与えられれば与えられるほど、世界中が自分に借りがあると思い込むような人間が」

 私がまだ幼かった頃、美咲は私を抱き上げ、冗談めかしてこう言ったことがある。

「いつか私が、結衣の新しいお母さんになったらいいと思わない?」

 当時の私は幼すぎて、ただからかわれているだけだと思っていた。

 今にして思えば、あれは決して冗談などではなかった。それは彼女の人生における、執念に満ちた目標の一部だったのだ。

 そして、彼女はそれを成し遂げた。

 まず誠一郎を奪い、次いで冬木夫人の座を我が物にした。

 そして今度は、私の夫を奪い取ろうとしている。

 私は手を伸ばし、箱からブレスレットを掴み取った。

「私はただ、母の遺品を取り返しに来ただけ」

 そう言って席を立ち、帰ろうとした。

 だが、美咲がテーブルの脇で私の行く手を遮った。その顔には相変わらず穏やかな微笑みが張り付いていたが、声の色は明らかに変わっていた。

「私はあなたの母親よ――それは絶対に変わらない事実。冬木家の財産も、会社の人脈も、お父さんの遺言もね。あなたはこの家から逃れられはしないのよ」

 彼女は言葉を切ると、さらに笑みを深めた。

「私を拒絶するということは、この家族すべてを捨てるということ。その意味、ちゃんと分かっているのかしら?」

 私はようやく顔を上げ、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。

「あなたが何者であろうと、私には関係ないわ。私の中では、冬木誠一郎という人間は十五年前、母が亡くなったあの日に死んでいるの」

 私はスマートフォンの画面を開き、写真フォルダの画像を彼女へと突きつけた。

 一枚目の画像。修平と美咲が高級ランジェリーショップで使ったクレジットカードの利用明細。日付、金額、購入品目――すべてが克明に記録されている。

 二枚目の画像。メッセージアプリのスクリーンショット。

「今度、あなたのためにあの下着を着てあげるわね」「結衣ちゃんは意地っ張りだから、板挟みになっているあなたが可哀想でならないわ」

「修平のこと?」私の声は、ひどく冷めきっていた。

「欲しければ、拾えばいいわ。私が一度捨てたものに、未練なんてないから」

 美咲の顔から、笑みが完全に凍りついた。

「あなた……知ってたの?」

 私はスマートフォンをバッグにしまった。

「私が知っていたかどうかなんて、どうでもいいこと」

「重要なのは――冬木誠一郎がこの事実を知ったとき、果たしてどんな顔をするかということよ」

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