第2章
光が消えた瞬間、私は活気ある商店街の一角に佇んでいた。懐かしい焼き鳥の香ばしい匂いが風に乗って漂い、近くの喫茶店から流れる演歌が耳に心地よく響いていた。すべてがあまりにもリアルで、それでいてどこか恐ろしいほどに間違っているように感じられた。
スマホを確認する――二〇二四年二月十五日、午前十時四十七分。私たちは本当に八ヶ月も前に戻ってきたのだ。
大輔がほんの数歩先に立っていて、戸惑ったように辺りを見回している。
「ねえ」私はおそるおそる彼に近づいた。「大丈夫?」
彼は私の方を向いたが、その瞳には見覚えがあるというような色は一片もなかった。
「すみません、ちょっと……めまいがして」大輔は眉をひそめた。「あなたは……?」
心臓が止まりそうになった。彼は本当に私のことを知らない。私たちの関係――この時間軸では、存在すらしなかったんだ。
「小林美月です」私は声を無理やり自然に聞こえるようにした。「ただ……気分が悪そうに見えたので」
「ご心配どうも。でも、大丈夫です」大輔は礼儀正しく微笑んだ――私たちが初めて会った時に見た、あの笑顔だ。「そろそろ行かないと。友達が待ってるんで」
彼は振り返りもせずに背を向けて歩き去った。私は凍りついたようにその場に立ち尽くし、彼の人影が人混みの中に消えていくのを見つめていた。
この時間軸では、私は彼にとってただの他人。じゃあ……私は一体、ここで何をしているの?
財布を取り出す。身分証にはまだ小林美月と書かれているが、スマホを確認すると、大輔と私の写真はすべて消えていた。友達リストにも彼の名前はない。
さらに悪いことに、私のSNSは、私がこの街で働いたことがないことを示していた――最新のロケーションはまだ実家のままだった。
最悪。私にはここに生活も、仕事も、この街との繋がりも何もない。
午後二時、私は大輔を追って中心街にある現代美術館へ向かった。
写真展の内覧会が開かれており、会場はスーツやモノトーンの服装をした美術関係者や愛好家たちで賑わい、皆静かに作品を鑑賞しながら控えめに感想を交わしていた。
私は隅に隠れ、大輔が何度も見たことのあるあのグレーのスーツを着て、優しい女性と話しているのを眺めていた。
酒井茜。
写真で見るよりずっと美しく、エリート教育を受けた者特有の自信に満ち溢れていた。彼女は黒ののワンピースを身にまとい、壁に飾られた写真を心から楽しんでいる様子で眺めている。
「この作品は構図が面白いですね」大輔が彼女に近づいた。その声には、かつて私がよく知っていた知的な魅力が漂っていた。「写真家は光と影を使って、時が凍りついたかのような錯覚を生み出している」
茜は彼の方を向き、興味深そうに目を輝かせた。
「写真にお詳しいんですね?」
大輔は微笑んだ――彼が初めて私に美術理論を説明してくれた時の、あの自信に満ちた笑顔だ。
「僕が興味があるのは、鑑賞者の反応の方なんです」彼は言った。「ご存知ですか? 真の芸術は作品の上にあるのではなく――鑑賞者の瞳の中にあるんです。あなたが僕を見るその眼差しは、まるで僕自身がアートになったかのような気分にさせてくれる」
肺から空気がすべて抜け出し、ぽっかりと空いた痛みだけが残ったような気がした。
その口説き文句……私が教えたものじゃない。
去年の春の夜、私たちのマンションで、どうすればアート好きな女の子と仲良くなれるか話し合った時のことをはっきりと覚えている。私は彼にこう言ったのだ。「女の子はアートに例えられるのが好きなのよ。自分が特別な存在だって感じられるから」
そして今、彼はその全く同じ口説き文句を茜に使っている。
茜は明らかに魅了され、甘い笑みを浮かべた。
「大輔さんって、いつも言うべき言葉を心得ていますよね」彼女はそっと笑った。「羨ましい才能だわ」
「あなたが世界で最も美しい言葉に値するからです」大輔は深く、魂のこもった瞳で彼女を見つめた。
吐き気がした。そのセリフも私のものだった。女性を唯一無二の存在だと感じさせる方法を教えたのは、私なのだ。
二人は美術館を歩き回り続け、私は少し離れて後をつけた。大輔が、私がこれまで教えたテクニックを一つ残らず披露するのを聞いていた。アートについて語る方法、偶然を装った出会いの作り方、さらには彼のボディランゲージまで――すべてが全く同じだった。
彼はまるで完璧なコピー機ね。私が教えたすべてを使って、他の誰かを攻略してる。
夕暮れ時、大輔は茜を美術館の裏庭へと誘った。そこは温かみのあるストリングライトと小さなテーブルと椅子が置かれ、親密な空間として設えられていた。
「素敵ですね」茜は嬉しそうに言った。「どうしてこんな場所を知っていましたの?」
「前に下見しておいたんです。君を驚かせたくて」大輔はポケットから小さなギフトボックスを取り出した。「高価なジュエリーじゃないけど、僕たちが知り合ってからの大切な瞬間が全部詰まってます」
茜が箱を開けると、そこには手作りのミニフォトアルバムが入っていた。
「この写真……全部取っておいてくれましたの?」彼女はアルバムをめくり、感動の涙を目に浮かべた。
「写真が重要なんじゃない――君と一緒にこれらの思い出を作ったという感覚が大事なんです」大輔は優しく彼女の頬に触れた。「君と過ごす一瞬一瞬が、時間を貴重なものに感じさせてくれます」
私は茂みの後ろにしゃがみ込み、拳を固く握りしめていた。
この手作りアルバムのアイデアでさえ、私のものだった。週末を丸々使って作り方を教えながら、「女の子が一番感動するのは高価なプレゼントじゃなくて、心のこもったサプライズなのよ」って言ったのに。
茜はすでに感動のあまり泣いていた。彼女はつま先立ちになり、大輔にキスをした。温かい光の下で、二人はまるでおとぎ話の完璧な結末のように抱き合った。
そして私は、暗闇に隠れ、自分が分かち合った恋愛の知恵のすべてが、他の誰かの幸せを作るために使われるのを見ていることしかできなかった。
彼に愛し方を教えたのは私。でも、私は彼に本当の意味で愛されたことなんてなかったんだ。
その瞬間、心が死ぬとはどういうことなのか、完全に理解した。これは彼のタイムマシンを発見した時よりも辛い。なぜなら、彼の心の中での私の本当の居場所――私がただのテクニック指導者で、感情のコーチで、使い捨ての代用品だったという事実を目の当たりにしているのだから。
息が詰まるようなこの場所を去ろうと转身した、その時。角の向こうから聞き覚えのある音が聞こえてきた。
カシャ。カシャ。カシャ。
その連続シャッターのリズムに、心臓が途端に速く脈打ち始める。音を追っていくと、美術館の隅の影の中に、背の高い人影が見えた。彼はカメラのレンズを覗き込み、壁の抽象画を熱心に撮影している。
あのシルエット、あの集中した表情、あの長く優美な指……。
松田良也?
