第3章
美術館の片隅に立ち、一心に写真を撮るその人影を、私は見つめていた。心臓が胸から飛び出してしまいそうなほど、激しく高鳴っていた。
その細い指も、少し猫背気味のシルエットも、ヴィンテージのカメラも――何もかもが見慣れすぎていた。
ありえない……。松田良也は、もう……
私の足は思わずそちらへ向かっていた。一歩一歩が、まるで割れたガラスの上を歩いているかのよう。彼のお葬式の日の冷たい雨が再び顔に打ちつけるような気がして、あの忌まわしい日の百合の花の香りまで蘇ってくる。
彼がまだ生きているはずがない。元の時間軸では、良也は死んでいたのだから。
けれど、近づいてその横顔をはっきりと目にした瞬間、私はその場で気を失いそうになった。本当に、彼だった。生きている、呼吸をしている良也が、壁の抽象画を撮ろうとレンズの角度を調整することに集中している。
「大丈夫ですか? 顔色が真っ青ですよ」
その優しい声に、私ははっと顔を上げた。良也がカメラを下ろし、心配そうにこちらを見ている。その瞳は気遣う色に満ちていた。この温かい声も、この優しい眼差しも……記憶の中と寸分違わない。
「松田……良也、ですか?」 自分の声がひどく震えて、自分でも何を言っているのかわからないくらいだった。
彼は優しく微笑んだ――私が夢にまで見た、あの笑顔で。「ええ、松田良也です。どこかでお会いしましたか?」
本人の口からそれを聞いて、私の世界は完全にひっくり返ってしまった。生きてる……本当に、生きてる……体がふわふわして、今にも意識を失ってしまいそうだ。
「具合が悪そうですね。まずはこちらに座ってください」 良也は優しく私の腕を支え、美術館の休憩スペースにあるベンチまで導いてくれた。
その感触は、温かくて、本物だった。幻覚じゃない、夢でもない。良也は、本当に生きている。
「お水、取ってきますね」 彼はそう言うと、足早にサービスカウンターへ向かい、すぐに水の入ったグラスを持って戻ってきた。
私はそのグラスを受け取った。手はまだ微かに震えている。良也は私の隣に腰を下ろしたが、圧迫感を与えない絶妙な距離を保ってくれた。こういうところも彼らしい――いつも、どこまでも気遣いができて、優しいのだ。
「ありがとうございます」 私はゆっくりと水を飲み、必死に自分を落ち着かせようとした。
「どういたしまして。私は松田良也、写真家です」と彼は自己紹介した。「メンタルヘルスのプロジェクトで撮影をしていて、アートが人の感情にどう影響を与えるかを記録しているんです」
「メンタルヘルス」という言葉を聞いて、私は即座に警戒した。「メンタルヘルス? どうして……どうしてそのテーマを?」
良也は少し考え込み、その眼差しにどこか深みが差した。「多くの人が、静かに苦しんでいる気がするんです。アートがその助けになれるなら……意味があることだと思う。現代社会のプレッシャーは大きすぎて、孤独の中で戦っている人がたくさんいるから」
相変わらず、優しい良也……心の中でそう思うと同時に、嫌な予感が全身を駆け巡った。メンタルヘルスって言った――もう、始まってるの?
元の時間軸では、良也がメンタルヘルスの問題に目を向け始めた後、彼自身がうつ病の渦に落ちていったのだ。
「すごく緊張しているみたいですね。私、何かおかしなことを言いましたか?」 良也は私の表情の変化に気づき、心配そうに尋ねた。
「いえ、そんなことないです」 私は慌てて首を横に振った。「ただ……その写真では、主にどんな側面を?」
「主に見過ごされがちな、感情の瞬間を記録することです」彼の瞳が情熱的な光で輝いた。「深夜の喫茶店で一人物思いに耽る人とか、芸術作品の前でふと涙を流す人とか。そういう、ありのままの感情の反応って、時として作品そのものより心を動かすんです」
そう語る彼の真剣な表情を見ていると、胸の奥から懐かしい感動がこみ上げてきた。これこそが、私が片思いしていた良也だった――繊細で、才能豊かで、いつも見過ごされがちな美しさに目を向けている。
「とても意味のあるお仕事ですね」私は心からそう言った。
「そうだといいんですけど」彼は苦笑した。「現実はいつも……いや、こんな重い話はやめましょう。君は? アートが好きなの?」
答えようとした瞬間、私はふと思い出した。私は本来、ここにいるはずではなかった。かれに知るはずのない情報を漏らさないよう、慎重にならなければ。
「私も……写真が好きなんです」私は言った。「さっき撮っていたあの絵、とても特別でしたね」
「あれは孤独をテーマにした作品なんです」良也は例の抽象画を振り返った。「都会の喧騒の中での、現代人の孤立感を表しています。共感する人は多いと思うですよ」
アートや写真について話していると、時間はあっという間に過ぎていった。良也の見識は相変わらず深く、人を惹きつける。けれど、会話が深まるにつれ、私の不安は募るばかりだった。
美術館を出ると、街の夜は薄暗い街灯に包まれていた。良也が自分から提案してきた。「最近、仕事のストレスかな、眠りが浅くて。どこかいい喫茶店を知りませんか? 少し座っていきたいんです」
「眠りが浅い」という言葉に、私の心臓はきつく締め付けられた。不眠……元の時間軸と全く同じだ……
「眠れないのは、辛いでしょう?」私は探るように尋ねた。
「うん、時々ベッドで一晩中眠れなくて、頭の中で色々なことを考え続けてしまうんです」良也はこめかみを揉んだ。「最近撮っているこのメンタルヘルスのプロジェクトのせいかもしれません。重い話に触れることが多すぎて」
私たちは通りをゆっくりと歩きながら、良也は続けた。「時々、自分の写真が本当に人の助けになるんだろうかって思うんです。でも現実はいつも……」
「現実は、どうなんです?」私は彼の言葉を遮った。胸の不安がどんどん強くなっていく。
良也は立ち止まり、街灯の下で力なく笑った。「現実は、どうにも癒せない痛みがあるみたいなんです。最近いつも感じるんですけど……いや、やめておきましょう。初対面なのに、こんなネガティブなエネルギーを君に押し付けるべきじゃない」
だめ、悲劇を繰り返させてはいけない。今度こそ、私が彼を救わなきゃ。
私は深呼吸をして、勇気を振り絞って言った。「実は、痛みって誰かに話すことで軽くなることもあるんですよ。もし良ければ、私でよければ聞きます」
良也は私を見て、その目に驚きが、そしてすぐに感謝の色が浮かんだ。「ありがとう、本当に。こういう話を進んで聞いてくれる人なんて、ほとんどいないですから」
「誰だって、理解されて、気にかけてもらうべきだと思うんです」私は真摯に言った。「誰も一人で痛みを抱えるべきじゃない」
彼はしばらく私の顔をじっと見つめ、その表情に何かが揺らいだ。「なんだろう、君には……どこか見覚えがあるような気がするんです。もしかして、前に会ったことあります?」
私は息を呑んだ。気をつけて、美月。ボロを出さないで。
「多分、人生に対する見方が似ているだけかもしれません」私は慎重に言葉を選んだ。
「そうかもね」彼は微笑んだが、その目にはまだ戸惑いの色が残っていた。「さて、そろそろ帰らないと。今夜はありがとう――話を聞いてくれて。君が思う以上に、救われましたよ」
交差点の角で別れようとした時、琥珀色の街灯の下で彼を見た。そのシルエットは、あまりにも脆く、儚げに見えた。
もう二度と、あなたを失ったりしない。私は心の中で強く誓った。何があっても、あなたを救う方法を見つけてみせる。
夜の闇に消える前、良也がもう一度振り返った。「ねえ、また会えるかな? 君には心惹かれるものがあるから」
私は頷いた。彼が去った後、私は一人街灯の下に立ち尽くし、この二度目のチャンスがもたらす重圧を全身で感じていた。
