第2章
星奈視点
図書館、午後三時。
角のテーブルに座り、解剖学の教科書を手にしていたけれど、ページに書かれた言葉はまったく頭に入ってこなかった。
昨夜の航平との過ちが、壊れたレコードのように頭の中で何度も繰り返される。
星奈、一体何やってるの? 彼氏のルームメイトと寝るなんて……
ぐるぐると渦巻く思考を遮るように、スマホが震えた。航平からのメッセージだった。「大丈夫か? 昨日のこと……心配してる」
画面を見つめたまま、キーボードの上で指がさまよう。心臓が激しく脈打っていた。
だめ、こんなの狂ってる。これ以上、翔太を裏切れない。
深呼吸を一つして、私は急いで返信を打った。「昨日のことは間違いだった……少し、考えさせて」
メッセージを送った後、頭をすっきりさせようとこめかみを強く揉んだ。このままじゃダメだ。
翔太は参考資料を探しに本棚へ行っていて、テーブルの上には彼のスマホが置き忘れられていた。
その画面が、突然野球部のグループチャットの通知で光った。
弘人、「翔太、由衣とはどうなってんだ?」
心臓を大きなハンマーで殴られたような衝撃だった。
翔太が戻ってきていないことを確認するために辺りを見回し、私はこの前のチャットの履歴を開くのを我慢できなかった。
弘人、「翔太、由衣のこと狙ってるって聞いたぞ?」
翔太、「彼女は特別だよ。野心家で、先見の明がある」
陽介、「白石家の令嬢か、いい選択だな」
翔太、「由衣は俺の野心を本当に理解してくれる。成功のための代償ってやつを分かってるんだ」
弘人、「最近よく『勉強』とか言って会いに来てるもんな、面白い」
翔太、「由衣のビジネスセンスには感心させられる。彼女となら未来が見える」
一つ一つの言葉が、ナイフのように心を切り裂いていく。私はスクロールを続けた。
翔太、「昨日の夜も由衣と深夜二時まで合併戦略について議論してた。彼女の洞察力にはいつも驚かされる」
昨日の深夜二時、 それはちょうど私が発情期で苦しんでいた時間。なのに彼は、あの女と「戦略の議論」をしていた。
そして、最も残酷なメッセージが目に飛び込んできた。
弘人、「お前のあの彼女はどうすんだよ?」
翔太、「ただの幼馴染だよ、別に特別な関係じゃない。あいつの発情期、いつもタイミング最悪でさ、マジで面倒なんだよな」
『ただの幼馴染? 面倒?』
両手が激しく震えだし、涙で視界が滲む。三年間も付き合ってきたのに、私って彼にとってその程度の存在だったの?
「星奈? なんで俺のスマホ見てるんだ?」
背後から聞こえた翔太の声には、明らかな怒りが含まれていた。慌ててスマホから手を離したけれど、もう遅かった。
彼は怒りで青ざめた顔でずかずかと歩み寄ってくると、スマホをひったくった。「お前には俺のプライベートなメッセージを見る権利なんてない!」
「プライベートなメッセージ?」私は立ち上がり、震える声で言った。「グループのみんなに、私のことただの幼馴染だって言ったの? 私の発情期が面倒だって?」
翔太の顔がさっと白くなったが、彼はすぐに平静を取り繕った。「あれはただの……男同士のノリだよ。本気にするな」
「男同士のノリ?」私の感情が制御できなくなっていく。「白石由衣を褒めてたのも男同士のノリ? 彼女となら未来が見えるって言ってたじゃない!」
「星奈、落ち着け!」翔太は周りの視線を明らかに気にしながら言った。「ここは図書館だぞ、騒ぎを起こすのはやめてくれ」
「騒ぎを起こす?」私は思わず笑いそうになった。「いくつか質問しただけで騒いでるってことになるの? 深夜二時まであの子とチャットしてたのは何て言うのよ?」
「あれは学術的な議論だ!」翔太の声も荒くなり始めた。「投資戦略について研究してたんだ、お前に何が分かる!」
「私には分からない?」涙がこぼれ落ちた。「だから、分からない私はお荷物扱いされても当然だって言うの?」
その時、部屋の向こうからうんざりするほど甘ったるい声がした。「翔太? あの投資心理学の本、見つけたわ!」
白石由衣が分厚い本を抱え、こちらにすべるように歩いてくる。彼女は仕立ての良い高価のブランド服を身にまとい、髪は完璧なアップスタイルに結い上げられていた。
赤く腫れた私の目を見て、彼女はわざとらしく心配そうな顔で尋ねた。「どうしたの? お二人、喧嘩でも?」
「なんでもない」翔太はすぐに優しい表情に切り替えた。「ちょっとした誤解だよ。由衣、その本を探してくれてありがとう」
「大丈夫、私たちはパートナーだもの」由衣の視線が私と翔太の間を行き来し、それからわざと驚いたように言った。「山本さん、とても動揺しているみたい。私、何かお邪魔してしまいましたか?」
「邪魔なんかじゃない」翔太は気まずそうに言った。「ちょうど話し終わったところだ」
「話し終わった?」私は冷たく笑った。「そうね、どうせ私にはあなたたちの高尚な議論なんて理解できないものね」
由衣は翔太に寄り添い、彼の腕に軽く触れた。「翔太、ストレスが溜まっているみたい。もっと静かな場所で勉強を続けましょうか?」
「いい考えだ」翔太は頷き、それから嫌悪感をにじませた目で私を見た。「星奈、お前も自分の感情をコントロールすることを覚えたほうがいい。誰もがお前のそんな理不尽な振る舞いを許してくれるわけじゃないぞ」
「理不尽?」私の声は甲高くなった。「あなたがグループチャットで私のことを面倒だって言ってるのを見て、それを問いただすのが理不尽なの?」
「お前には俺のスマホを覗き見る権利なんてなかったんだ!」翔太はついに爆発した。「それに俺は事実を言ったまでだ! お前の発情期は迷惑なんだよ、いつも最悪のタイミングで来る! 由衣は絶対に俺にこんなプレッシャーはかけない!」
その言葉は、顔を平手打ちされたような衝撃だった。周りの学生たちがこちらを見てひそひそと囁いている。
由衣が完璧なタイミングで口を挟んだ。「こんな……個人的な問題をここで議論するのはやめましょう。翔太、私の特別控え室に行きましょう、あちらの方が静かだわ」
彼女は「個人的な問題」という言葉をわざと強調し、その目は優越感に輝いていた。
「待って」私は由衣に歩み寄り、怒りで我を忘れていた。「あんた、一体何様のつもり? しつこく私たちの仲を裂こうとして」
由衣は甘く微笑んだ。「山本さん、何か誤解しているようだわ。翔太と私はただの学術的なパートナー。ビジネス戦略を議論しているだけ――誰もが理解できるような高尚な内容ではないの」
「高尚な内容?」私は怒りに燃えた。「あんたのくだらない策略が高尚だって?」
「もうたくさんだ!」翔太が顔を真っ赤にして立ち上がった。「星奈、お前はやりすぎだ! 由衣は校長先生の娘なんだぞ、彼女が俺と組んでくれるだけで光栄なことなんだ! お前に彼女を疑う権利がどこにある!」
「私はあなたの彼女よ!」私は叫んだ。「私に何の権利があるかって? 私はあなたの三年来の彼女なのよ!」
「彼女?」翔太は鼻で笑った。「俺に応援もせず、発情期にだけしがみついてくる彼女が?」
その言葉は、私を完全に打ちのめした。私は翔太を見つめた。私と一緒に育ってきたこの男が、今、私を嫌悪と焦燥感に満ちた目で見ている。
由衣が火に油を注いだ。「山本さん、嫉妬しているのは分かるわ。でも、ある種の社会的レベルには特別控え室のない人もいるの。もっと……自分の境遇に合った彼氏を見つけたらどうかしら? 例えば、そちらの――」
「黙って!」私はもう我慢できず、由衣に飛びかかった。
翔太がすぐに私たちの間に割って入った。「星奈! 気でも狂ったのか!」
「ええ、狂ってるわよ!」涙が顔を伝って流れ落ちた。「あなたたち二人が、私を狂わせたのよ!」
私は背を向け、図書館から走り出した。後ろから翔太の苛立った声が聞こえた。「悪いな、由衣、行こう。あいつはいつもこうやって感情的になるんだ」
外に出ると、雨が降り始めていた。大粒の雨が私の体を打ちつける。私はあてもなく歩き、涙は雨水と混じり合った。
スマホが震えた。翔太からのメッセージだった。「騒ぐのはやめろ。由衣が、獣医学部の学生を紹介してやれるって言ってる。お前にもっとふさわしい……相手が見つかるかもしれない」
そのメッセージを見て、私はスマホを地面に叩きつけそうになった。この期に及んで、彼は由衣に私を「助けて」もらおうっていうの?
雨はさらに激しくなる。ずぶ濡れになって震えていると、後ろから聞き覚えのある声がした。
「星奈さん?」
