第1章
残業は夜の九時半まで続いた。私は慌てて荷物をまとめると、企画会社「創想空間」の正門を飛び出した。
スマートフォンの画面では、兄である城崎霖からのメッセージが通知を知らせている。
『早く来いよ、みんな揃ってる』
以前、私と兄の仲はずっと良かった。けれど彼が大学卒業後に海外留学を選んで以来、一度も顔を合わせていない。
ずっと、会いたかった。
今回、彼は市場調査のためにN市へ来るという。ちょうど私や彼の友人もこの街にいるため、集まることになったのだ。
N市で最高級とされるレストラン「ハクエン」へ小走りで向かいながら、遅刻したことを心の中で詫びる。九時に着くと約束していたのに、急な案件が飛び込んできて、解決するまで抜け出せなかったのだ。
何か重要な話を聞き逃していなければいいのだが。
エレベーターが二十三階に到着する。私は鏡面仕上げの壁に向かって風に乱された長い髪を整え、深く息を吸い込んでから個室の扉を押し開けた。
「すみません皆さん、遅れちゃって——」
「みんなに紹介するよ。僕の彼女、結城天雨だ」
声が、途切れた。
個室内の談笑が一瞬にして静まり返り、全員の視線が入り口に立つ私へと注がれる。
たった今立ち上がって恋人を紹介していた男が、顔色を変えて私を凝視している。
青木日成。
彼は兄の親友であり、私の恋人でもある。
私たちは二年間、秘密の交際を続けてきた。彼は一度として、関係を公にしようとはしなかった。
彼は私を見ている。けれど私の視線は、久しぶりに再会する兄の姿だけに注がれていた。
「灯」
左側から城崎霖の声がして、私の方へ歩み寄ってくる。
今日の彼は黒いカジュアルなスーツを身に纏っている。長身と端正な顔立ちが、個室の薄暗い照明の下で一際魅力的に映えた。
会わない数年、彼はさらに心をときめかせる男になっていた。
「俺の妹だ。桐谷灯」
城崎霖は私の肩に手を回し、皆に向かって紹介する。
伝わた温もりで我に返り、私はようやく青木日成の方を見た。
不思議なことに、こんな事態に直面しても胸の痛みはなかった。それどころか安堵のため息をつき、どこか解放感さえ覚えている。
「お噂は伺っております、桐谷さん」
結城天雨は自ら手を差し出してきた。春風のように穏やかな声だ。
「彼からよくお話は聞いていますよ」
「はじめまして」
私は手を伸ばして彼女と軽く握手を交わす。
「おめでとうございます」
「灯、そんなに顔が赤くて、どうしたの?」
城崎霖は鋭く私の異変を察知し、額に手を伸ばしてきた。
「熱があるんじゃないか?」
「仕事の疲れかもしれない」
突然、青木日成が口を挟んだ。その声には、これまで聞いたことのないような緊張感が滲んでいる。
「最近、企画会社の方で案件が立て込んでて、灯はずっと残業続きだったから」
個室の空気が、不意に微妙なものへと変わた。
城崎霖はわずかに目を細め、私と青木日成の間を交互に見やった。
「具合が悪いわけじゃないの、兄さん。ただ兄さんに会いたくて、走ってきたから」
私は城崎霖の手をそっと押し返した。
「お手洗いで顔を洗ってくるね」
廊下は長く、大理石の床の上で私のヒールが急いた音を響かせた。
心臓の鼓動が早すぎて、息苦しい。どこか冷静になれる場所が必要だった。
「灯!」
背後から青木日成の声がした。
私は足を止めず、むしろ歩調を速めた。だが彼の方が足が長く、すぐに追いつかれてしまう。手首を掴まれ、廊下の突き当たりにある非常階段へと引きずり込まれた。
非常階段には薄暗い非常灯の光しかなく、空気にはカビ臭さが漂っている。青木日成は私の手を離したが、ドアを塞ぐように立ちはだかり、逃げ道を断った。
「城崎に何か言ったわけじゃないよな?」
彼の第一声は、あろうことかそんな言葉だった。
私は顔を上げ、二年間付き合ってきたこの男を見つめた。
この二年間、彼のことはよく理解しているつもりだった。残業中には夜食を買ってきてくれたし、落ち込んでいる時は映画に付き合ってくれた。病気の時は親身になって看病もしてくれた。
愛されていると思っていた。
今になってようやく分かった。私は彼のことを、何一つ分かっていなかったのだ。
「何も言ってない。安心して」
私はとても落ち着いていた。
「灯、わがままを言うなよ」
青木日成は眉を寄せ、苛立ちを隠そうともせずに言った。
「俺の状況は知ってるだろ。俺は……」
「わがままじゃないわ」
私は再び彼の言葉を遮った。
「もう終わりにしましょう。今日から、私たちは赤の他人よ」
薄暗がりの中で、彼の表情はよく見えない。
ただ、その口調に怒りが混じっていることだけは分かった。
「桐谷灯、どうしてお前は悲しみも怒りもしないんだ?」
私は少し考えてから答えた。
「その必要がないからかな」
彼はまだ何か言いたげだったが、不意に廊下から兄の声が聞こえてきた。
「灯? そこで何を話しているんだ?」
「兄さんの話をしてたの。四年間も帰ってこないなんて薄情だねって」
私は笑顔を作り、すぐに彼の方へと歩み寄った。
城崎霖は一瞬言葉を詰まらせ、それから私に言った。
「ごめん」
