第3章

小島奈緒は風間怜司の瞳に絡め取られ、言葉が喉の奥で凍りついた。

潤んだ目。澄んだ艶。細く白い首筋と、くっきり浮いた鎖骨が、いやでも視線を吸い寄せる。呆けた表情のせいで、風間怜司の目はますます明るくなった。

彼は彼女の鎖骨から視線を引きはがし、声をやわらげる。

「汚れた。飲むな」

そう言いながら、小島奈緒の手から椀を受け取ろうとする。

小島奈緒はずっと彼を見つめたまま、指先がスープ椀に触れそうになった瞬間、手首にぐっと力を入れて振りほどいた。風間怜司は不意を突かれ、手を空振りさせる。

一瞬きょとんとしてから、彼は低く言った。

「新しいの、取らせた。ちょっと待て。これは飲むな」

思い出す。前の時も、彼は笑って連れの非礼を詫び、汚した分の埋め合わせだと言って、誰かに食事を買わせた。

あのときの自分は本当に腹が減っていて、差し出されたそれを受け取り、夢中でかき込んだ。

――それから、風間怜司は彼女にまとわりつくようになった。

やがて広がった噂。金目当ての女だという罵声。背中に突き刺さる軽蔑の視線。全部、彼と無関係じゃない。

違うと証明したくて。最後に残ったちっぽけな自尊心を守りたくて。小島奈緒は何度も何度も、風間怜司を拒んだ。

けれど、尊厳なんて戻らなかった。噂は膨らむ一方で、彼と寝たのだとか、1晩6万だとか、そんな話にまでなった。

ある日、授業のあと教室に忘れ物をして、慌てて取りに戻った。すると数人の女子が男子と言い合っているのが耳に入った。

「高すぎない? あいつ、そこまでの価値ある?」

「あるある」男子がへらへら笑う。「俺が金持ちなら喜んで払うわ。でも俺、金ねぇし」

どっと笑いが起きる。

彼らは互いに馴れ合っていて、平気で冗談を投げ合える関係だ。

でも、小島奈緒は彼らと親しくない。

入学前の新入生研修。小島奈緒はお婆さんの世話があるからと特別に免除された。研修から戻った同級生たちは、二週間の共同生活で一気に距離を縮め、笑って怒鳴って、気軽にからかい合えるようになっていた。

その輪の中で、小島奈緒だけが、相変わらずよそ者だった。集団に溶け込めない異物。

今でもはっきり覚えている。あのとき、扉を押して入った瞬間――教室が、しんと静まり返ったことを。

彼女は自分の物を取り、踵を返して出ていった。バイトに行かなきゃいけない。こんなところで言い争っている時間はない。

背中に、女子の大きな声が飛んできた。

「ほら、やっぱ本当なんだよ! 本当じゃなきゃ、なんで反論しないの?」

反論したら信じるの? その噂を流したのは、あなたたちじゃないの?

彼女たちは風間怜司を追いかけ回しても、彼が振り向きもしない。その妬みが、あり得ない噂に姿を変えた。

生まれ変わって初めて風間怜司と向き合う小島奈緒の胸の内は、ぐちゃぐちゃだった。

彼の執拗さが自分にもたらした面倒は、今も鮮明に覚えている。けれどそれ以上に、死んだあと――身寄りのないお婆さんを手配したのが彼だったことも、忘れられない。

そして彼が、仇を高い場所から突き落としたことも。

夜風の中、屋上に立つ若い男の姿が、脳裏に蘇る。頬に血。冷えきった顔。怖いと思った。

なのにその瞳の奥には、黒い穴みたいなものがあって、引力で彼女を吸い寄せる。

――引き寄せられたら、もう二度と抜け出せない。

風間怜司は熱を帯びた目で彼女を見ていた。仲間の一人はすでに昼飯をもう一つ持ってきて、へらへら笑いながら近づいてくる。後輩に向かって『怜司さんが買ってやれってさ』とでも言って、いい感じに背中を押すつもりなのだろう。

その瞬間、何の前触れもなく。

この綺麗な後輩が、椀を口元へ持ち上げ、喉を反らして――

ごく、ごく、ごく、ごく。

「……」

男子たちは固まった。小島奈緒が息継ぎもせず、スープを一気に飲み干すのを、目を丸くして見つめる。

彼女は手の甲で口元をぬぐい、同じく呆然としている風間怜司を一瞥すると、

ガンッ、と椀を机に放り投げた。

「食べ物を無駄にするの、よくないから」

そう言い捨て、鞄をひっつかむ。風間怜司の横を、まっすぐ通り過ぎていった。

男子たちは口を開けたまま、彼女が食堂を出ていくのを見送った。

「怜司さん……?」トレーを持った男がぽかんとする。「なに、今の……?」

風間怜司もその場で固まっていた。

しばらくして、彼は目元を押さえたまま、堪えきれないように笑い出した。

元の席に戻って座ってからも、肩が震えるほど笑い続ける。

「今の、見えてたんじゃね?」と誰かが言う。

「あるわけねぇだろ。背中に目でもついてんのかよ」と別の誰かが鼻で笑う。

そうだ。あいつらは、小島奈緒がスープをよそうタイミングで、紙くずを椀に投げ入れた。わざとだ。風間怜司が小島奈緒に声をかける口実を作るために。

風間怜司はまだ目元を押さえ、笑いの余韻に沈んでいた。

ようやく落ち着いたものの、口角は勝手に引きつる。

「電話番号どころかさ……名前すら知らねぇじゃん」

小島奈緒に新しい飯を取りに行かされた仲間――高橋浩太が、ふと思い出したように言った。

「俺、あの子誰か分かった」

全員の視線が集まる。

「さっきまでピンと来なかったけど、無料スープのとこ行ったの見て思い出した」高橋浩太は言う。「今年ニュースになった子だよ。お婆さん背負って通学してるってやつ。覚えてる?」

「奨学金の子?」

「そう」高橋浩太が頷く。「あの報道の写真見たとき、俺言ったじゃん。奨学金の子、めちゃくちゃ可愛いって。お前らゲームばっかで誰も聞かなかったけどさ。ほら、実物、写真の10倍だろ! 写真なんて横顔ちょっとしか写ってねぇのに、俺、美女だって分かったもん!」

風間怜司が軽く蹴る。

「記事、出せ」

高橋浩太はスマホで検索し、該当の記事を開いて差し出した。

風間怜司が受け取ると、周りも覗き込み、誰かが読み上げる。

「H大に特殊な事情を抱えた学生が……小島の母親は数年前に他界、父親は事業の失敗後に家を出て連絡が取れず、幼い小島はお婆さんと二人で……小島はお婆さんを見捨てないと誓い、どこへ行くにも――」

途中で読むのが面倒になった男の顔を、風間怜司は指を広げた手で押しやり、横にどかした。

男はそれでも楽しそうに言う。

「小島、だってさ」

こういう美談でも、ニュースはフルネームを出さない。

風間怜司は顎を擦った。

小島――。

あの日、彼は最後列、後ろの扉のそばに座っていた。放課後間際、ふと顔を上げると、向かいの教室でチャイムが鳴る前にこっそり抜け出す影があった。

度胸あるな。しかも女子。

先生にバレないよう腰を落として、忍び足で出てくる。身のこなしは軽く、猫みたいにしなやかだった。

真昼の光。古い校舎の大きな窓から差し込む陽射しの中、短い上着がずり上がり、背中の腰のあたりが少しだけ覗いた。雪みたいに白くて、光が当たって、風間怜司の目がくらむ。

その子が振り返り、白く整った顔が見えた。

その瞬間、風間怜司の耳の中が静まり返った。

教師の声も、同級生の囁きも、ページをめくる音も――全部、消えた。

前世の風間怜司は、あの一目がどれほど深く小島奈緒を刻んだかを、のちに思い知ることになる。

けれど今世の風間怜司は、まだ何も知らない。ただ、目の中が揺れて、胸の中も揺れた。言葉にできない変な感覚。

要するに。

あの午後、風間怜司は小島奈緒を見た瞬間、恋に落ちた。

彼は目を逸らせず、彼女が見えなくなるまで追い続けた。

そして何食わぬ顔で窓際へ移動し、外を見下ろす。案の定、少しして彼女は校舎から飛び出していった。

軽い。精霊みたいだ。透明な羽でもつけたら、そのまま飛べそうだった。

次の日も見かけた。

風間怜司が食堂へ向かっていると、彼女は食堂から飛び出してきた。片手に大きな袋を一つずつ。前髪は汗で濡れている。彼の目の前をさっと横切ったのに、彼の存在には気づきもしない。

袋は重そうだった。肩はあんなに華奢なのに、走るのは速い。

走りながら、食堂に向かう寮母のおばさんに声をかけていた。おばさんが近くに来たところで、風間怜司は尋ねた。

「今の子、誰?」

「ああ、あの子ね」おばさんは言う。「稼ぐの上手よ。学内で代わりにご飯買って、届けて、お金取ってるの」

代行なんて珍しくない。お湯汲み、列並び、席取り。そういうのは昔からあって、取り合いになることさえあるらしい。

――金がないのか?

ないに決まってる。

食堂で一品だけ取って、無料スープへ向かうのを見た時点で、風間怜司には分かった。

あれだけ痩せているのに。

ダイエットのために一品だけの女子は、主食に手を出さない。スープは主食だ。彼女はただ、節約している。

彼女が食堂に入った瞬間から、周りの男どもは彼女の話をしていた。無料スープの樽へ向かったのを見て、風間怜司は隣を軽く蹴った。

「入れろ。今。すぐ」

相手は女子を見て、自分の手元の丸めた紙くずを見て、すぐ察した。にやにやしながら言われた通りに投げ入れた。

風間怜司は口実を得て、声をかけに行った。

段取りは完璧――のはずだった。

まさか、あの子が……セオリーを踏み外してくるとは。

でも、誰か分かったならいい。風間怜司は思う。午後、学部長に聞けば済む。

そう考えていると、男どもが高橋浩太のスマホに群がって、写真を見ては「腰、細っ……」などと下品に感嘆している。

風間怜司は一拍、黙った。

そして身を乗り出し、高橋浩太の手からスマホを抜き取る。

記事の下には写真が何枚も並んでいた。そのうちの一枚。小島奈緒が上の人間に頭を下げていて、腰のあたりが少しだけ写っている。

あの日の真昼。眩しすぎる陽射し。眠気でぼんやりして、早くチャイムが鳴れと願っていた自分の目に、不意に飛び込んできた白い腰。

目がくらんで――そのまま、胸の奥まで揺らされた。

風間怜司は無言でページを閉じ、スマホを高橋浩太へ放り返した。そして眉を上げる。

男どもは即座に口をつぐむ。

理解したのだ。小島の女は、もう勝手に品定めしていい相手じゃない。

風間怜司が目をつけた。

小島奈緒は食堂で風間怜司を振り切って以来、追ってこられることもなく、絡まれることもなく、二日ほど静かに過ごせた。

その日の午後。放課後もいつも通り依頼をこなし、女子寮への届け物を終える。鞄を背負い、校門を出てバス停へ向かった。

門を出た瞬間、路肩に停まる黒い車が目に入る。

小島奈緒は顔を逸らし、見なかったことにして足を速めた。

背後で、短いクラクションが鳴る。

小島奈緒は一瞬だけ足を止め、次の瞬間、バス停へ向かって駆け出した。

車内の風間怜司は、無言でそれを見ていた。

――学内で顔の利く学部長を捕まえ、小島奈緒の情報は一通り手に入れている。

今日は時間を読んで校門で待った。姿が見えたからクラクションを鳴らした。

なのに、あいつ……聞こえなかったみたいな顔で、逃げた。

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