第5章
風間怜司は車を走らせ、バスの後ろにぴたりとついて一停留所ぶん追っていた。するとその車内が、ふっと小さくざわついた。
ドアが開くなり、男がひとり、勢いよく飛び降りて――そのまま全力で逃げていく。続いて小島奈緒が降りた。明らかにその男を追って出てきたのだろう。けれど、追いつける距離ではない。
風間怜司はハンドルを握ったまま、眉を寄せた。
何があった?
車を降りて小島奈緒に声をかけようとした、その瞬間。小島奈緒がふいにこちらへ視線を投げた。見えたのか、見えていないのか。判断がつかないまま、彼女はくるりと向きを変え、また人波をかき分けてバスへ戻ってしまった。
ドアノブに伸ばしかけていた手が止まる。
――だが、風間怜司はそれ以上バスを追わなかった。
さっきのは、絶対に何かあった。
バスが走り去るのを見送り、彼は縁石ぎりぎりに寄せて車を停めた。
「すみません、おばさん」
降りてすぐ、さっきのバスから降りてきた中年女性を呼び止める。
「さっきの車内、何があったんですか」
おばさんは、ちょうど出来事を反芻していたところだったのだろう。聞かれた途端、目を輝かせて身を乗り出した。
「変態よ、変態! 男がね、若い子に触ったの。痴漢! それで知らん顔してさ。そしたらその子、度胸があってねぇ。ペンで手を刺して血ぃ出させて、『警察呼ぶ、監視カメラ見せてもらう』って言ったら、男が逃げたのよ」
言い切って、鼻を鳴らす。
「やましいから逃げるんでしょ。ほんっと情けない」
風間怜司は問い返した。
「その子、どんな感じでした? さっき降りた女の子、俺の知り合いかもしれなくて」
「すっごく可愛かったわよ。学生っぽい子。髪はね――」
おばさんは髪型と服装を思い出すように語り、風間怜司は一発で確信した。
小島奈緒だ。
おばさんは満足げに去っていったが、風間怜司は眉間にしわを刻んだまま、眼鏡の男が逃げた方向を見据える。
車に戻り、ドアを「バン」と閉めて発進。側道へ入り、路肩に沿って速度を落とした。
車輪がどれだけゆっくりでも、人間の脚よりは速い。ほどなく歩道にひとり、妙に目立つ男が見えてきた。顔はよく見ていない。だが片手で、もう片方の手の甲を押さえている。あまりにも分かりやすい特徴だ。
黒い車が路肩に止まる。
眼鏡の男は、今日はつくづくツイていないと思っていた。
本来この路線は使わない。数日前、いつも乗る路線で女の子に手を出した。まさか隣でずっと無言、終始スマホを見ていたデカい男が彼氏だとは思わなかったのだ。二人ともスマホに夢中で、完全に他人同士に見えた。
女が声を上げた瞬間、彼氏に引きずり下ろされて殴られた。しかも「見かけたらまた殴る」と釘まで刺された。
怖くて数日、遠回りして地下鉄に逃げた。今日やっと、地下鉄より便利な路線を見つけたと思ったのに――今度は、弱そうに見えてやたら凶暴で、やたら容赦のない女に当たった。
「クソが……ツイてねぇ……」
口の中で汚い言葉を転がしていた、そのときだ。
前方で黒い車が急ブレーキを踏み、きゅっと路肩に止まった。
若い男が飛び降りてくる。ドアを「バン」と閉め、進路を塞ぐように立った。
人間は弱い相手には強く、強い相手には弱い。眼鏡の男はとりわけその典型だった。七、八歩の距離があるのに、立ちはだかる男の圧が肌に刺さる。足が勝手に右へ半歩、次にまた半歩。避けるつもりなどなくても、本能が回避を選ぶ。
風間怜司は横に一歩踏み込み、眼鏡の男の胸を押した。
「うわっ……!」
男がよろける。
「な、何すんだよ!」
小島奈緒相手なら怒鳴れたのに、目の前の男は背が高く、肩幅があり、筋肉のつき方が違う。声が勝手に小さくなる。
風間怜司が一歩詰める。
「さっき、バスの中で何した」
眼鏡の男は目を泳がせた。
「関係ねぇだろ!」
風間怜司が、ふっと笑う。
小島奈緒がここにいたなら、その笑みに背筋が冷えたはずだ。あの夜、風間怜司が彼女を死に追いやった相手を突き落としたときも――同じ笑い方をしていた。
眼鏡の男が「え」と瞬く間もない。
拳が、顔面に叩き込まれた。
鈍い衝撃。歯が一本、飛んだ。
男は二歩ほどよろめき、膝が崩れて歩道に倒れ込む。白目をむき、口の端から血が垂れた。
通行人たちは悲鳴を飲み込み、二人を避けるように足早に去っていく。それでも何度も振り返り、遠巻きに様子を窺った。
風間怜司は、これで一般人ならしばらく起き上がれないと分かっている。煙草に火をつけ、二口だけ吸った。
そして近づき、男の手を足で踏みつけ――ぐり、と捻るように体重をかけた。
「ぎゃああああああ!」
痛みで意識が引き戻され、男は豚みたいに喚く。
風間怜司は冷えた目で見下ろし、煙草の灰を男の顔に落とした。
「手ぇ出すな。次も見かけたら殴る」
「わ、分かった! 分かったって! げほっ、げほっ……!」
灰が喉に入り、咳と涙と鼻水が一気に噴き出す。
風間怜司は足を退け、スマホを取り出して「カシャ、カシャ」と二枚撮ると、そのまま車へ戻った。
煙草はまだ残っている。窓を開けたまま吸い、冷たい視線で男が這うように起き上がるのを見届けた。ふらふらと歩き出し、何度も黒い車を振り返る。怖くなったのか足を速め――そのまま前方の電柱に「ゴン」とぶつかった。
風間怜司は鼻で笑い、煙を吐く。
スマホを指で払って、さっきの写真を確認した。涙と鼻水まみれの顔は見たくない。さらに指を滑らせると、画面に細い背中が映る。
小島奈緒の後ろ姿。
風間怜司の視線が、そこで止まった。
この二日、学内で小島奈緒を探した。気に入ったなら、手に入れる。単純だ。だが小島奈緒は、妙に捕まらない。
彼女は大学1年、風間怜司は3年。授業の場所が違い、顔を合わせる機会が少ない。昼になると彼女はいつも早退し、学食と寮の間を走り回っている。とにかく忙しそうだ。
寮にも住んでいないらしい。教職員住宅に部屋をあてがわれているという噂を聞いた。午後、授業が終わって女子寮への配達を済ませると、すぐ消える。
今日は放課後、校門で車を出して待ち伏せしてようやく見つけた。なのに彼女は、見えないふりをして車の横を走り抜けた。
あのときは、ただ気づかなかったのかもしれないとも思った。クラクションだって名前を呼ぶわけじゃない。音は全部同じだ。
だが――さっき、バスから降りたとき。小島奈緒は確かに、こちらをちらりと見た。
その瞬間、風間怜司は直感した。
彼女は知っている。黒い車も、後ろにつけていたのが自分だということも。
そして、避けた。
風間怜司はスマホを見つめ、目を細める。
盗み撮りした小島奈緒の写真は、どれもブレている。いちばん鮮明なのは、テイクアウトの容器でぱんぱんの袋を両手に提げ、口に学食カードをくわえたまま走っている一枚だ。走る風で前髪が持ち上がっている。
綺麗な女はいくらでも見てきた。だが、ここまで見た目を気にしない美人は珍しい。
学内掲示板に出していた広告も見た。売りはスピード。『お客様が寮に戻った頃には、食事も届く』と。
こういうきつい稼ぎ方をしている学生は、確かに少なくない。
風間怜司は煙草を揉み消し、顎を指で擦った。
どんな生活してんだよ。
目を上げれば、バスはもう影もない。追う気もない。おそらく彼女は、またどこかのバイト先へ向かったのだろう。
彼女は分かっていない。こんなに綺麗な女が、こんな暮らし方をする必要はないということを。
――まあいい。
風間怜司は思う。自分が教えてやればいい。苦しい道だけが、生活じゃないと。
*
バスの車内に、どっと笑いが起きた。太ったおばさんの顔が真っ赤に膨れ上がる。
「若いくせに、なんて躾のなってない! 年上に対する敬意ってものを、家で教わらなかったの!」
小島奈緒はまっすぐ見返した。
「悪いことをした人がいるなら、責めるべきはその人です。被害に遭った人を責めるのは違う」
――そうだ。
自分は騙され、罠にかけられた。必死に抵抗して身を守ろうとして、それでも死んだ。なのに同級生たちの口では、下世話な色恋の噂にすり替えられ、無責任な想像で弄ばれた。
挙げ句、騙した女も、追い詰めた男も、誰かが話題にすると笑って相槌を打つ。
『だよな』
魂が宙に漂っていたあのとき、小島奈緒は憎しみで引き裂きたくなった。けれど飛びかかっても、身体はすり抜ける。壁すらすり抜ける。
骨ばかりの細い体。だが黒い瞳には、怒りの火が燃えている。
太ったおばさんは、なぜか背筋がぞくりとした。さっき、この子は男相手にペンで刺して血を出させたのだと思い出す。途端に勢いがしぼむ。
「……ふん」
ぶつぶつと何か言いながら、悔しそうに顔を背けた。
周りは笑いを堪えている。
小島奈緒が向き直ると、そばかすのある女の子が親指を立てていた。彼女も何度も似たような目に遭ってきたのだろう。あそこまでやり返して血まで出させたのを見て、純粋に感動している顔だ。
小島奈緒は小さく微笑み返した。
停留所に着く。大きな乗り換え地点で、乗客が半分ほど降りた。車内の空気がふっと軽くなる。
小島奈緒は窓越しに後方を見た。黒い車は、もういない。
今世の風間怜司は、前世ほど執着していないのかもしれない。
視線を戻し、バスの床を見つめる。胸の奥が、言葉にならない感覚でざわついた。
バイト先は学校から近い。四つ先で降りる。前世でも、ずっとここで働いていた。
カフェのドアを押し開けると、カウンターの奥に、品のよい顔立ちの若い男が立っていた。シャツにベスト、蝶ネクタイ。彼は顔を上げ、小島奈緒を見るなり目を輝かせて笑う。
「来たね」
「店長」
店長の名は松本直樹。前世、小島奈緒が死んだあとも、噂を信じなかった数少ない一人だ。
彼は二十代半ば。大学を出てまだ数年で、家の支援を受けてアニメコンセプトカフェを開いた。コーヒー、アフタヌーンティー、軽食が売りで――名物はメイド服。
一昨日、面接に来た小島奈緒を見た瞬間、松本直樹の目は文字通り光った。制服を試してみて、と熱心に勧める姿は、知らない人が見たら少し怪しい。
彼は小島奈緒を知らない。だが小島奈緒は彼を知っている。
彼女は平然と奥でメイド服に着替え、出てくるなり手際よく条件交渉をして、夕食を付けさせた。
前世の最初は賄いなどなかった。松本直樹が、彼女がパン一個で夕食を済ませることが多いと気づいて、見かねて付けてくれたのだ。
彼は遠回しに好意も匂わせた。けれど風間怜司が現れて、あっさり引き下がった。
小島奈緒が死ぬ前、彼女を口説く男はいなかった。学内の男は皆知っていたのだ。風間怜司が彼女を狙っていると。
風間怜司がいる限り、誰も手を出せない。
ところがある日、風間怜司は突然、学校から消えた。理由は誰も知らない。
その少し後、小島奈緒は顔見知りの女子に「バイトがある」と誘われた。行ってみれば、ずっと彼女を狙っていた男が仕組んだ罠だった。風間怜司がいないのをいいことに、男は歯止めを失い、小島奈緒を屋上へ追い詰め――彼女は転落した。
小島奈緒は挨拶を済ませると、奥へ行って先に食事を取った。
松本直樹がキッチンに頼んだ夕食は、量も栄養もきちんとしている。彼はいつも、こういうふうに面倒を見てくれた。もちろん小島奈緒も、ただで得をする気はない。前世では最終的に店でいちばん勤続の長い店員になり、近隣の男子学生を呼ぶ看板にもなった。
食べ終えて口をゆすぎ、制服に着替えて持ち場へ出る。
松本直樹は内心、快哉を叫んでいた。
この新人、最高だ。
面接で見た瞬間から胸がどきどきしていたが、メイド服で出てきたときは本気で膝が抜けそうになった。二次元の美少女が、そのまま三次元に降ってきたみたいだった。
その場で思った。
仕事ができなくてもいい。制服を着て店に立ってくれるだけでいい。看板で十分だ。
――ところが。
小島奈緒は初日から手際が異常にいい。研修すら要らないレベルで、しばらく働いている他のスタッフより動ける。ひとりで何人分も回してしまう。
