第6章
入ったばかりの日と比べて、今日は男の客が明らかに増えていた。――この流れ、前の人生で一度経験している。小島奈緒は落ち着いていた。
松本直樹が選んだこの店の立地は抜群だ。周りに大学がいくつもあり、どこもそう遠くない。ここでバイトを始めてすぐ、奈緒には「オタクの女神」なんて妙な評判が立ち、近隣の大学のオタクたちが、時々わらわらと連れ立って来るようになった。
その結果、松本直樹は彼女の時給を二度も上げたのだった。
松本直樹も当然気づいている。というより、男客の一卓が小声で小島奈緒のことを話しているのを、耳にしていた。
「ほら、あの子! 言っただろ、俺、嘘ついてねぇって!」
「今日来て正解!」
「宣言する。ここ、今後俺の学食な」
20時半。奈緒が上がると、松本直樹はわざわざ声をかけた。
「お疲れ」
それから念を押すように言う。
「帰り、気をつけろよ」
小島奈緒は「はい」と返事をして店を出た――が、すぐに引き返した。
「店長」
そう呼んでから、少しだけ言いにくそうに続ける。
「週末の昼に入れる家庭教師のバイト、探してるんです。もしツテがあったら紹介してもらえませんか」
危うく忘れるところだった。今はまだ9月。彼女は祖母を連れて隣の市からこの市へ出てきて、大学に通い始めたばかりだ。高校時代に持っていた稼ぎ口は全部途切れ、いま必死で新しいバイトの当てを探している最中。
松本直樹は地元の人間で、親戚も知り合いも多い。前の人生でも、彼が紹介してくれた家庭教師の仕事は、ネットで自力で拾うものよりずっと堅かった。
少なくとも、変な人間には当たらない。
思い出したなら、馴染んでから言い出す必要もない。小島奈緒はその場で頭を下げた。
松本直樹はまったく嫌がらない。来てまだ三日なのに、妙に距離が近い。それがむしろ嬉しいらしく、口元が緩んだ。
「いいよ。あとで母ちゃんに電話して、聞いてみる」
「ありがとうございます」
礼を言って、奈緒はバスで帰宅した。
家に着いて鍵を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
祖母は認知症で、奈緒が学校へ行く間はどうしても一日中家に鍵をかけておくしかない。幸い、学校が貸してくれたこの部屋には古い家具がいくつかと、テレビが一台ついていた。古くても動く。祖母の娯楽は、ほぼそれだけだ。
「お婆さん、電気つけて。暗いままテレビ見たら目が悪くなるよ」
ドアを閉め、奈緒が先に電気をつける。
祖母は「うんうん」と頷いてから言った。
「節電」
その一言が胸に刺さる。カフェで一晩働いて、奈緒はもうくたくただった。だからこそ余計に、喉の奥がきゅっと痛くなった。
「外、空気いいよ。少し歩こう」
祖母も一日閉じ込められていたのだ。息抜きが必要だ。
この建物は古いが、後から改修されてエレベーターが付いた。奈緒は祖母に薄手の上着を着せ、手をつないでエレベーターで下へ降りる。玄関から外へ出る短い階段だけは――奈緒が祖母を背負って下りた。
祖母は片脚があまり利かない。平地ならまだしも、階段の上り下りはきつい。入学時に出回った「祖母を背負って登校した」という噂は、ここから来ている。
実際、奈緒は入学初日、祖母を背負って学長室まで連れて行ったのだから。
秋の夜は澄んでいる。昼間の熱気が引いて、ひんやりと心地いい。中庭には散歩をする住人たちがちらほら。
奈緒は半袖、祖母は長袖。ふたりで手をつないで、ゆっくり歩いた。すれ違うたび、奈緒は小さく会釈をする。
ここは学校の教職員住宅だ。
前の人生でも、奈緒は近所付き合いを大切にしていた。自分が死んだあと、祖母が餓死しかけた――あの光景を知ってしまった今は、なおさらだ。
自分がいないとき、いつ助けが必要になるかわからない。祖母の命が、隣人の気づきひとつにかかることだってある。
秋の夜空は驚くほどきれいで、星が多い。
奈緒は祖母の手を握ったまま、囁くように確認する。ちゃんと食べたか。夕飯は冷たくなっていないか。トイレの水は流したか。
祖母が答えられるのは半分くらい。少し質問が続くだけで、すぐに話がこんがらがる。
奈緒は祖母の髪をそっと整えて、優しく言った。
「大丈夫。今日、店長と相談したの。これからは放課後いったん家に戻って、ご飯を温めてから仕事に行くね」
前の人生では、ふたり分の生活と、祖母の持病の医療費を一人で背負っていた。時間は全部、稼ぐために削った。祖母の食事も保温弁当箱に詰めて渡すだけ。
昼ならまだしも、夜はどうしてもぬるくなる。わかっていた。それでも、生きるほうが先だった。
けれど死んで魂になって彷徨ったとき、抱きしめたくても抱きしめられない現実が、奈緒を深く後悔させた。
だから今世では、少しでも祖母を優先したい。自分がきつくなっても構わない。
試用期間のこの数日を経て、今日、松本直樹と正式に話をつけた。勤務時間を前の人生より30分遅らせてもらった。その30分で、いったん帰宅して温め直せる。
祖母はにこにこと言う。
「心配しなくていいよ。奈緒が帰ってくる頃には、ご飯できてるから」
認知症の人は、相手の言葉を全部は受け取れない。欠けた部分を、自分の記憶で埋めて返してくる。
祖母はきっと、昔のことを言っているのだ。奈緒が放課後に帰宅して、祖母の作ったご飯を食べていた頃。
奈緒は訂正しない。ただ手をつないで歩く。
明るい星空を見上げ、奈緒は視線を落として、足元の地面がゆっくり後ろへ流れていくのを見た。
「お婆さん……」
声が小さく震える。
「私、心がぐちゃぐちゃで」
「どうしたらいいか分からない人がいるの」
「前は嫌いだったのに、今は嫌いじゃなくて」
「でも……怖い」
「怖くない」
祖母が奈緒の手をぽんぽんと叩く。
「お婆さんがいる。奈緒、怖くない」
奈緒は困ったように笑って、「うん」と頷き、祖母を抱き寄せて肩に額を預けた。
――風間怜司を、どうすればいい。
風間怜司という人は。あの人は……。
その夜、祖母が深く眠っても、奈緒は天井を見つめたまま目を閉じられなかった。
一度、踏み込んだら。もう、抜け出せない。
翌日、金曜日。
休み時間、奈緒は持ち歩いている手帳を開き、時間の段取りを組み直した。
土曜の午前に家庭教師の仕事が一件入っている。住所を見て、その家を思い出した奈緒は、思わず眉を寄せた。
昼はいつも通り、こっそり早退して食堂へ走り、注文された弁当を受け取り、人の流れに逆らって寮へ運ぶ。全部届け終え、代金も回収した頃には空腹で胃がきりきり痛んだ。
小走りで食堂へ戻り、まっすぐ鈴木さんの窓口へ。
「鈴木さん! それ、ください」
前の人生で馴染みだったせいで、自然に甘えた声になる。
「もうお腹ぺこぺこで、死にそう」
鈴木さんは少し驚いた顔をした。初対面に近いのに距離が近い。けれど、可愛い子は得をする。可愛い子に甘えられると、悪い気はしない――むしろ、ちょっと嬉しい。
鈴木さんはお玉を持ち上げ、少し多めに盛ろうとした。
そのとき、どん、とカウンターに手が置かれた。
「おばさん、いいっす。こいつ今日はここで食わないんで」
背の高い若い男が、カウンターに体重を預けるようにして身を乗り出し、鈴木さんに言った。
高い鼻梁。硬質な輪郭。口元の笑み。
鈴木さんは一瞬でやられた。お玉を持ったまま、無意識に背筋が伸びる。ついでに、横目で奈緒を見る。
――どうすんの。いるの、いらないの。
風間怜司が鈴木さんに話しかけるために身を屈めたせいで、彼の体は奈緒にやたら近い。声が、ほとんど耳元に落ちてくる距離。
前なら、こんなふうに詰められた瞬間に苛立って、反射的に身を引いていた。
でも今の奈緒は、緊張で体が固まった。カウンターに置いていた両手が、いつの間にか拳になっている。
「私……」
奈緒は息を吸い、できるだけ平静を装って顔を向けた。
「まだご飯、食べてない」
「知ってる」
風間怜司は当然みたいに言う。
「俺も待ってたし、俺も食ってねぇ」
奈緒は少し黙ってから訊いた。
「……用事?」
古びた服。染めた髪も派手なネイルもない。周りの女の子たちよりずっと地味だ。
それなのに、顔だけが澄んだ光を帯びていて、目を離せなくなる。
風間怜司はほんの一瞬、視線を外せなかった。
綺麗な子は見慣れている。たいていは甘やかされて、自信過剰で、扱いも面倒だ。
けれど小島奈緒の目は、澄んでいるのに冷たい。
――この子、綺麗な自分に無自覚だ。
それが、いい。
風間怜司はにっと笑った。やけに明るい、太陽みたいな笑い方。
「小島奈緒、だよな。俺、風間怜司。大学3年」
ようやく、名乗った。
「火曜の件、悪かった。飯買ったのに食わなかっただろ。つまり俺、お前に一食借りてる」
笑いながら続ける。
「ここ数日ずっと探してた。返したくてさ。今日やっと捕まえた。もう引き延ばすのなし。さっさと返させろ」
バスの件で、奈緒は学んだ。逃げても逃げ切れないことがある。せいぜい先延ばしになるだけ。
風間怜司と食事をするのは、いずれ避けられない。彼は目的を決めたら、簡単には引かない。
風間怜司は勘が鋭い。奈緒が自分を警戒しているのも、たぶん感じ取っている。説得に時間がかかると思っていたのだろう。
けれど奈緒は、二秒だけ黙ってから頷いた。
「……いいよ」
風間怜司の顔がぱっと明るくなる。
「マジで? 何食う?」
腕時計に目を落とし、「午後の授業まで時間あるな」と言う。
「遠くは無理だけど、学校の近くなら。鉄板焼きとか、和食とか……」
一度受けたなら、奈緒も腹を括った。食べるものを聞かれて、ちゃんと食べたいものがある。
「あとさ、あそこの店、辛い料理も――」
風間怜司が候補を並べている途中で、奈緒が口を開いた。
「ケンタッキー」
ポケットに手を突っ込んだまま、淡々と言う。
「ケンタッキー食べたい」
「……」
風間怜司の口が止まる。
「は?」
