第3章

鋭い刃先が頬に貼りつき、針で刺されるような痛みが走って、思わず息を呑んだ。

必死に喉を震わせても、声にならない。呻き声しか出てこない。

――いったい、何をするつもりなの。

家政婦の娘のくせに、私の身分を奪って夏川家に二十年以上も居座った女。挙げ句、実の娘である私は何もかも譲らされ、父も母も兄も、そして今は夫まで、迷いなく彼女を選んだ。これだけ奪って、まだ足りないのか。

夏川清美は愉しげだった。刃がじわりと押し込まれ、頬をゆっくりなぞっていく。半分の顔が、かっと熱く痛む。ねっとりしたものが痛みと一緒に、少しずつ肌の上を広がっていった。

落ち着いた口調で言う。

「何か言いたいの? 聞こえないなあ。まあ、どうせろくなことじゃないでしょ。だから黙ってて。私の話だけ聞いて」

刃先がもう一度、顎に当てられる。声には得意げな色が混じった。

「その顔、ほんと目障り。だから送ってあげる前に、私の手でちゃんと壊しておくの。動かないでね? うっかり目を潰しても、私のせいにしないで」

くすくす、と笑う。顎に当てた刃が、その笑いに合わせて小刻みに震え、首筋をちくちくと突いた。

痛みはもう麻痺しかけていた。私は必死に顔を背け、刃から逃れようともがく。頭の中に浮かぶのは、あの女の傲慢な笑み。今ここで一緒に死ねるなら――そんな衝動が喉元までせり上がる。

「そんなに激しくしないで、お姉ちゃん。私、手が震えちゃう。ほら、動くから……また傷、増えた」

笑いを含んだ、軽くて甘い声。柔らかく、無邪気で――いつもそうだ。

昔も、あの一番無垢な顔で瞬きをしながら、平然と言った。

「お姉ちゃん、私ね、小野寺允樹のこと好きになっちゃった。奪ってもいい?」

吐き気がするほど嫌いだ。完璧な仮面を被りながら、やることは毒そのもの。両手が自由なら、迷いなくその顔を掴んで、皮ごと引き剥がしてやるのに。

でも、動けない。刃が何度も頬を刻む。顔の感覚が鈍くなり、粘つく液体が唇の端へ流れ込み、鉄と塩の味がした。

「允樹兄さんが『これからは俺の妹だ』って言うの、笑える。誰が妹なんかになりたいの。そんな顔で外に出たら、びっくりしすぎて人が死ぬかもね。結婚、できないでしょ? 結婚できなきゃ、私、妹じゃなくなるもん」

笑い声は明るいのに、手にこもる力は増していく。皮膚が丸ごと剥がされるみたいで、痛みなのか何なのかもわからない。歯の根が勝手にかちかち鳴った。

私は下唇を噛みしめた。跳ね上がるアドレナリンで、痛みは遠のく。掌のガラス片の角度を必死に変え、縄へ押し当てる。削れ。切れ。もっと早く。――チャンスさえくれれば、たとえ死んでも、こいつだけは道連れにしてやる。

その時、目隠しの黒布が外された。

夏川清美が、かすかに眉を寄せている。白く整った顔に、困ったような表情。

「邪魔だなあ。ねえ、睨まないで? 私が怖くなって手が滑ったら、目玉に刺さっちゃう。顔中どろどろって……怖いよね」

天使の皮を被った悪魔。

私はその偽りの顔を睨み続け、手の動きだけは止めなかった。掌が裂けて灼けるように痛いのに、それでも。

清美は口元を押さえて、くすっと笑う。無邪気そのものの仕草で。

「心の中で私を呪ってる? でも違うよ、私、助けてるの。向こうに行っても、顔がこんなに綺麗だったら地獄でしょ? 妹として、根本から解決してあげてるの」

もし視線で殺せるなら、彼女はもう何度も死んでいる。

「いい場所を用意したの。行ったら、みんな優しくしてくれるよ。もしかしたら、いっぱい稼げるかも。感謝しなくていいよ。だってパパとママのお金、あなたには使いたくないんだもん」

独り言みたいに喋り続けながら、匕首は止まらない。真剣な目つきは、芸術品でも彫っているかのようで――削っているのが私の顔だということを、愉しんでいる。

死ねばいいのに。

鬱だの自殺だの、全部が本当ならよかった。そうでないなら、ただ私から奪うための小賢しい芝居だ。

「お姉ちゃん、その目ちょっと怖い。食べちゃいそう。……顔が惜しいなら、別のを壊そっか」

清美はゆっくり私の背後へ回り、しゃがみ込む。

「手、ほんと綺麗。ピアノ弾く手だもんね。あ、血。……ふーん。あと少しで縄、切れそうだったじゃん。どうしていい子にできないの?」

そう言うなり、ハイヒールの踵が、ガラスを握る私の手をぐしゃりと踏み潰した。

ガラス片が掌の奥へ深々と食い込み、視界が真っ白に弾ける。意識が遠のきかけた。

それでも彼女は、晴れやかな笑い声のまま言う。気に入ったアクセサリーを見せびらかすみたいに。

「ほらね。私って神様に愛されてる。神様があなたにチャンスをくれないんだよ。だから、夏川葉月、諦めな。あなたは一生、私の足の指一本にも及ばない」

そして声色が一気に刃物になる。

「その手がそんなに偉い? ピアノも、ソフトも? 見てるだけでムカつく。死ね」

次の瞬間、匕首が反対の掌へ突き立てられた。

皮膚が裂ける音、刃が骨を擦る感触まで、聞こえた気がした。匕首は手のひらを貫き、痛みが脳天まで突き抜ける。背中を冷汗が流れ落ちた。

清美は刃を握ったまま、ぐりぐりと捻る。叫びはガムテープ越しの嗚咽に変わり、私は身を縮めた。彼女は愉快そうに笑い、私の手を押さえつけたまま、匕首を引き抜く動作を何度も繰り返す。

もう限界だった。視界が暗く落ちていき、私はそのまま意識を手放した。

「死んだらつまんない。水、持ってきて。まだ遊び足りない」

遠くで、夏川清美の声がした。

冷たい水が頭から浴びせられ、意識が引き戻される。目を開けようとしても、瞼が鉛みたいに重くて上がらない。

刃が、身体のどこかを好き放題に裂く。あの明るく甘い声は、じわじわと陰湿に変わり、地獄の鬼みたいに粘ついていった。

「死んだふりしても無駄。顔も壊した。あなたが自慢してた手も壊した。ほら、清高ぶってみせてよ」

「夏川さん、本当に殺しちゃだめだ。俺らは商売だ、死体処理は面倒だ」

男の声が割って入る。

清美はようやく手を止め、匕首を乱暴に私の顔の横へ投げ捨てた。ぱんぱん、と手を払って立ち上がり、尖った靴先で肋を蹴る。

鈍い痛みに、私はまた丸まった。

「人は渡す。向こうに着いたら金はすぐ入金して」

清美は、私の未来を買い物みたいに決める。

「任せてください、夏川さん。向こうの手に渡せば、どんな黒い大物でも皮を剥がされますぜ」

男の声は冷たく凶悪だった。

私は狭い木箱に押し込められた。蜷局を巻くように体を折り、蓋が閉じられた瞬間、わずかな光すら消える。外で釘を打つ音が続き、箱は完全に封じられた。

全身が痛い。少し動かすだけで傷が引きつれ、思わず息を吸う。

どこへ連れていかれる。売られるのか。

車の揺れで身体が木箱の内側へぶつかるたび、顔の灼けるような痛みがはっきりしていく。刃で切られた痛みじゃない。顔の皮を一枚、丸ごと剥がされるみたいな、熱くて狂う痛み。震えが止まらない。

もう考えられなかった。いっそこのまま死ねたら、それでもいい。どうせ私は、愛されない。選ばれない。なら、消えることが救いなのかもしれない。

次の大きな揺れで、身体が横へ投げられた。顔がざらついた板に擦れ、無数の針が一斉に刺さったみたいに痛む。息が詰まり、視界が落ちる。

そこでようやく、私は完全に意識を失った。

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