第4章
けたたましいサイレンの音で、私は叩き起こされた。
手足は相変わらずきつく縛られたまま。まだ、あの狭くて息の詰まる箱の中にいるらしい。けれど今度は、いっそう空気が淀んでいる。息を吸うたび、腐ったような悪臭と得体の知れない異臭が喉の奥を焼いた。
また気を失うわけにはいかない。私は必死に目を見開き、呼吸を整え、痛みが少しでもましになる姿勢を探してゆっくり体をずらす。冷静になれ。サイレンが鳴っている――つまり、まだ国内。今が最後の自力救出のチャンスかもしれない。
車が止まった気配がした。鈍い金属音がして、鉄門がゆっくり開いていく。外の声は小さく、途切れ途切れにしか聞き取れない。
「通行証、確認する。……受理証、仕事早いな。荷を全部下ろせ。今月これで二回目か?」
「金がなくてさ。妻子ほったらかして毎日外をうろつきたがる奴がいるかよ。ほら、一本どう? 吸えよ吸えよ」
媚びた笑い声。たぶん何かを押しつけた。
「ボディカメラ回ってる。そういうのいいから。規定通り検査する。さっさと動け。夜中なんだ」
がやがやした物音の隙間から、ようやく少しだけマシな空気が流れ込んできた。次の瞬間、箱ごと持ち上げられ――どんっ、と地面に叩き落とされる。身体が横倒しになり、骨まで響く衝撃で視界が白く弾けた。気を抜けば、また落ちる。外では次々と箱が落とされる音が続く。
そのとき、板の合わせ目の隙間から、細い光が差し込んだ。
――今しかない。生きる道は、ここだけ。
全身の痛みなんて構っていられない。私は裸足のまま、箱の内側を思い切り蹴った。
ドン、と鈍い音。しかし厚い木板はびくともしない。私の足の音は、外の話し声と箱同士の衝突音にあっさり呑まれて消えた。
駄目だ。諦めるな。
私は顔の傷の痛みも忘れて、後頭部を箱に叩きつけた。ゴン、ゴン。音は弱い。それでも、繰り返せば届くはず――。
「今の音、何だ?」
誰かがそう言った。胸の奥に、熱いものが刺さる。
私はさらに速く叩いた。頭が割れてもいい。国外に出されたら終わりだ。夏川清美が私を生かす気がなくても、あんな人を喰う場所に落とされても、待っているのは死しかない。
「いや、何も聞こえねえけど? こっちは元々活き物だし、どれか縛りが甘くて暴れてんじゃねえの」
箱が開く音。続いて、獣のくぐもった悲鳴。しばらくして、今度は豚の甲高い鳴き声が重なった。
「ほらな。うるせえから手足縛って口も塞いでんだよ。あいつら、ちょっとでも緩いと延々暴れる」
「……さっきのは違う。音がしたのはこの辺だ。もう一つ開けろ」
その声に、希望がぶり返す。お願いだ、気づいて――。
だが次の瞬間、上から別の箱が載せられたのか、隙間の光がふさがれた。闇。完全な闇。
一度きりの機会を、逃せるわけがない。私は必死に頭を打ち続けた。ゴン、ゴン、ゴン。豚の悲鳴と、箱を蹴る音と、怒鳴り声が絡まり合い、どれがどれだかわからないほどの騒音になる。
やがて力が尽きた。箱がまた持ち上げられる感覚。外の音が少しずつ遠ざかっていく。
――駄目だった。
私は絶望に目を閉じた。これが、私の運命なのか。
涙がゆっくり頬を伝い、傷口にしみて痛みが増す。けれど、痛みそのものはもう怖くない。子どもの頃から、傷は日常だった。殴られてできた痣も、喧嘩で切った傷も。
怖いのは未来だ。終わりの見えない恐怖。
このまま家畜みたいに運ばれて、売られるのか。
それとも、夏川清美が私を渡した時点で、売れるかどうかなんてどうでもよくて――最初から殺すつもりだったのか。
……悔しい。
私はずっと耐えてきた。あいつは私の人生を丸ごと盗んだ。それでも最後まで、あいつの手で潰されるのか。
どうすれば助かる。
もし顔が壊されていなければ、身体を売ってでも生きる道は選べたかもしれない。貞操なんて、生存の前じゃ軽い。なのにあいつは、その逃げ道ごと潰した。
売り先は、子宮か――生きた臓器。
顔を潰された女の行き先なんて、その二つくらいだ。そして結末は、どちらも死。
――それが、夏川清美の狙い。
嫌だ。私はあいつの筋書き通りに死なない。私を殺そうとした者には、必ず代償を払わせる。たとえ一筋でも機会があるなら、爪で引っかいてでも掴み取る。
復讐する。夏川清美も、裏切った小野寺允樹も、冷たい夏川家も――一人残らず、逃がさない。
再び車のドアが開く音。箱が下ろされ、誰かが苛立ったように蹴りつけた。直後、唾を吐く音。
「くそ、途中でヒヤッとした。点検が顔見知りで助かったが、また金が飛んだ」
「兄貴、まあまあ。この荷は両方から金が出る。損はしねえって。顔はやられてるけど、体つきは悪くねえ。拍売に回しゃいい値がつく。買い手が文句言うなら、少し返せば済む」
「……それしかねえか。投げた金は回収しねえとな。だが腹が立つ。引きずり出せ。ここはこっちの縄張りだ。規律ってもんを叩き込む。言うこと聞かねえなら――殺す」
言葉の端に、剥き出しの殺意。
鉄棒で箱がこじ開けられた。ぱっと眩い光が差し込み、目が焼ける。私は細めた視界の向こうで、何人もの男が覗き込むのを見た。品定めの目。私を「人」じゃなく「商品」として見ている目。
先頭の男は、右頬に深くえぐれたような刀傷。三白眼で、鼻で笑う。
「なんだよ、こんなブスか。口、解け。俺ぁ叫び声が好きなんだ」
髪を掴まれ、箱から乱暴に引きずり出される。ガムテープがべりべりと剥がされ、私は床に投げ捨てられた。
重い靴が、じりじり近づく。刀傷の男が屈み込み、私の血で汚れた手の甲に靴先を乗せ、ゆっくり捻った。
「ほら、叫べよ。ここは船の上だ。誰が助けに来る?」
痛みが骨を貫き、視界が揺れる。歯を噛みしめても堪えきれない。私は掠れた喉で、絞り出すように叫んだ。
「あ゛あ゛――!」
