第7章
あの小部屋をもう一度出されたとき、同じような女たちが大勢いるのが見えた。隅にしゃがみ込み、顔には怯えと、諦めきったような虚ろさが同居している。
私は平静を装い、頬に深い傷のある男へ歩み寄った。
「兄貴。準備できた」
胸元の大きく開いたドレスが身体に貼りつき、曲線を容赦なく浮かび上がらせる。姿を見せた瞬間、どこかで男の下卑た笑い声が上がった。
「顔さえ見なきゃ、なかなかそそるじゃねえか。兄貴、売れ残ったら戻ってきたあと、俺らで遊べるな」
傷の男は唾を吐き捨てた。
「俺に向かって笑うな。悪夢を見る。お前ら、先に車へ乗せろ。後ろを押さえる連中は道具を持て。大人しくねえのがいたら、その場で撃ち殺せ。責任は俺が取る」
私たちは車に押し込まれた。どれほど走ったのかもわからない。降ろされた先は――妙に賑やかだった。
車の列が途切れず、人が行き交い、屋台の呼び声まで聞こえる。まるで、どこにでもある街の顔。
……ここが、あいつらの言う闇市?
「競売場へ入る者は、銃器をすべてこちらへ。持ち込み禁止品が見つかった場合は、永久にブラックリスト入り。以後、闇市での取引は一切禁止」
厳しい声が響いたかと思うと、次の瞬間には調子が変わった。
「小野寺社長、本日もお越しで? どうぞどうぞ、こちらへ」
さっきまでの硬さが嘘みたいな媚びた声。
隣にいた男が小声でぼやく。
「兄貴、見ろよ。あいつら、露骨すぎんだろ……」
「今日はいい品があるか見に来ただけだ。数は出てるのか?」
低い声。落ち着いている。
「ええ、ええ。小野寺社長の目なら、きっとお気に召すものがございますとも」
そのとき、誰かが小さく言った。
「……榎本槙野も来てる」
さっきまでのざわめきが、凍りついたみたいに止まる。遠くから、ばたばたと雑多な足音が近づいてきた。
「榎本様、本日ご来場とは……まことに光栄です。すぐにお二方をご案内――」
「いい。道はわかる」
温度のない声が、空気を切る。
「小野寺社長。相変わらず、しつこいな」
「冗談を。俺は仕入れに来ただけですよ。榎本社長のところ、最近リストラが多いって聞きましたが。今日は見物ですか?」
「見物できるなら、それも悪くない」
榎本槙野。小野寺社長。
管理側の態度を見ればわかる。ここでは、この二人が「大物」だ。
――こんな相手に、どうやって覚えさせる?
考えてる暇はない。距離は遠くない。私はヒールでよろけたふりをして、二人の方へ倒れ込んだ。ぶつかるのは、どちらでもいい。一人でも引っかかれば――。
けれど運は悪かった。誰にも受け止められず、右手から床に落ちた。
ずきん、と針で突き刺されたみたいな痛みが掌から胸へ駆け上がる。息がひゅっと詰まり、震える手で起き上がろうとした、そのとき。
大きな手が、私の手首をしっかり掴んだ。
「そういう無茶は感心しないな」
小野寺社長の声だった。くすり、と笑いを含ませながら、私を引き上げる。
「……ありがとうございます」
声はできるだけ柔らかく。チャンスは一度だ。私は彼の手の甲に指をかけ、身を寄せるようにして、低く早口で囁いた。
「私を落札してください。あなたに、もっと稼がせられる」
「ずいぶんと優しいな。女を助ける趣味か?」
横から、冷えきった声。榎本槙野が鼻で笑い、そのまま連れを従えて中へ入っていく。
小野寺社長は何も言わず、私の手をそっと外した。そして彼もまた、部下を連れて歩き去る。
……聞こえたはずだ。あの声色なら、紳士ぶった男だ。どうか、気まぐれでもいい。私を買い取ってくれれば、生きる余地ができる。
「おい、全員大人しくしろ。ここに来たら余計な小細工は捨てろ。死にたくなきゃな」
冷たい声が再び響く。
「縛って連れていけ」
私たちは一本の縄で雑に両手を括られ、どこかへ引き回された。
「番号札だ。落札されるまでフードは外すな。自分の番号を覚えろ。呼ばれた番号は、ここから舞台に上がる。言うことを聞けば、痛い目は減る。いいな」
耳元で、がさつな声がする。言い終えると同時に、男は隣の少女を蹴り飛ばした。
「びくびくすんな。それじゃ値がつかねえ。安くしか売れなきゃ、戻って“開く”ぞ。そっちがいいのか?」
意味は全部わからない。だが、周りの女たちが一斉に息を呑んだ。――今より怖い何かがある。それだけは、はっきり伝わってきた。
競売が始まった。
縄で繋がれた女たちが一人ずつ連れていかれる。戻らない者もいれば、泣きながら引き戻される者もいる。
やがて私の番が来た。縄を引かれ、階段を上がる。
「本日の出品、美人。身長168、体重49キロ。バスト86、ウエスト61、ヒップ90。高学歴、高知能。最低入札額は80万。ご希望の方、どうぞ」
ざわざわと声が飛ぶ。
「体はいいな。傷はあるけど、養えば何とかなるだろ」
「値が低いってことは、欠陥品だろ。顔が終わってんじゃねえの?」
私は耳に入る言葉を振り切り、羞恥を捨てて、ゆっくり歩いた。見せるしかない。誘うしかない。生きるために。
「200万」
聞き覚えのある声。小野寺社長だ。
胸の奥で、火がつく。――彼ならいい。形はどうあれ、生存の場所を確保できる。
「400万」
反対側から、氷みたいな声。榎本槙野。
意外だった。関係は知らない。でも、張り合える相手なら――それでもいい。
「600万」
小野寺社長は淡々と上げる。
「1200万」
榎本槙野が即座に追い、火薬の匂いが濃くなる。
頼む。意地でも、憎しみでもいい。私の道を潰さないでくれ。
「榎本社長。今夜だけで、俺から何人も奪ってる。もう足りてるんじゃないですか?」
小野寺社長が、のんびりと言う。
「足りてる。だが、俺が欲しい」
榎本槙野の声には、傲慢さが滲む。
「小野寺社長こそ、俺を見張ってどうする?」
「じゃあ、どこまで付いてくるか見せてもらおう。2000万」
小野寺社長が軽く笑う。
「4000万」
榎本槙野も同じ調子で言う。周囲がどっと息を呑んだ。
「4000万はさすがに損だろ……」
「トップ級なら回収できるってことか?」
「闇市が内緒で情報流してんのか? 俺らも――」
「お前、勝てるのかよ」
「6000万」
小野寺社長の声が、低いざわめきを切った。
「1億」
榎本槙野が続ける。
「2億」
「4億」
数字が跳ねるたび、私の背中に冷たい汗が伝う。
「榎本社長。本気ですか?」
小野寺社長の声は笑っているのに、さっきより硬い。
「小野寺社長が気にすることじゃない」
「6億」
小野寺社長が、ふっと笑って上げた。――この流れ、榎本は煽られてる。最初は奪い合いでも、今はただ血を流させられてるだけだ。
「10億」
榎本槙野。
「……おめでとうございます、榎本社長。この“品”はあなたのものだ」
小野寺社長が、競売人より先に告げる。愉しそうな声で。
「10億、一回。10億、二回。10億、三回!」
客席から、笑い混じりの声が上がった。
「榎本社長、顔、見せてくれよ。10億なんて初めてだ。どんな化け物か気になる」
「外せ」
榎本槙野の声には、勝ち誇った響きがあった。
私は拳を握りしめ、爪が掌に食い込む痛みで理性を繋ぐ。
フードが外された瞬間。
さっきまでの喧噪が、嘘みたいに死んだ。
全員の視線が一点に集まる。10億で落とした醜い“品”を、榎本槙野がどう始末するのか――それを見たい目だ。
私も、その視線の先を追った。
黒いカジュアルウェア。ソファに斜めに腰掛け、指先で小ぶりのナイフをくるくる回している。陰のある瞳が、興味もなさそうにこちらを見上げた。
半空で、目が合う。
「10億でこれか。だったら、ここで削いでやる。競売場も学べ。何でもかんでも“売り物”にできると思うな」
陰冷な声が、すうっと落ちた。
下が再びざわめく。
「看板、叩き潰す気か?」
「榎本様、マジで怒ってるぞ……」
「10億なんて金、受け取って大丈夫なのかよ」
そのざわめきの中に、混じって届いた声。
「榎本社長、おめでとうございます。……こういうのが、お好みでしたか」
小野寺社長の声だった。
