第1章
由美視点
会議室の照明が明るすぎる。磨き上げられたテーブルに反射して、亮の顔にきつい影を落としている。床から天井まである窓の外では、真浜市が煌めいていた。オフィスから、昔二人で一緒に眺めたのと同じ光。あの頃、亮はこの街を二人で制覇しようと言った。
今では、お互いに顔を合わせるだけで胸が痛む。
弁護士が、この十分間で三度目の咳払いをする。中年で、頭頂部は禿げ上がり、明らかに居心地が悪そうだ。亮がテーブルの向こうから書類の束を押し出す。その指先が、微かに震えていた。
「由美、これにサインすれば終わりだ。シリーズBは明日クローズする。君は補償金を受け取って、俺たちは円満に別れる」
書類から顔を上げないまま、私は呟く。「円満に、ね」
その言葉は苦い味がした。
亮の結婚指輪が光を捉える。私のはもう何週間も前に外していた。テーブルを指でトントンと叩く。緊張している時の昔からの癖。絶対に認めないけれど。
円満。その皮肉に気づかないほど馬鹿じゃない。三年間もの秘密の結婚生活、そして今や、別れにさえ秘密保持契約が必要だなんて。
私は顔を上げた。彼の目と視線がぶつかる。「ねえ、亮。教えて。この三年、あなたにとってどれくらいの価値があるの?」
彼は凍り付いた。口が開き、そして閉じる。言葉が出てこない。
弁護士が身じろぎし、書類に目を通すふりをする。静寂の中、紙が擦れる音だけがやけに大きく響いた。
「どういう意味だ?」亮の声が用心深くなる。
私はペンを手に取る。ゆっくりと、意図的に、現金補償の欄に書き込んだ。三億七千五百万円、と。
「何をやってるんだ!?」亮が椅子を鳴らして勢いよく立ち上がる。
私はペンを置き、背もたれに寄りかかって、微笑んでみせた。冷たく、鋭い笑みだ。「あなたは私の技術に値段をつけた。私は私たちの結婚に値段をつける。公平な取引でしょう」
ペンは紙を突き破らんばかりに強く押し付けられていた。亮はテーブルの縁を掴み、指の関節が白くなっている。全身がこわばっていた。
「金の話じゃない! 由美、お前だって分かってるだろ.......」
「私が何を知ってるって?」私は彼の言葉を遮る。自分でも抑えられないほど声が上ずる。「三日前の役員会で手を挙げたこと? 『これはビジネスだ』って、それで全部正当化されるみたいに言ったこと? それとも、あなたは最初から私を対等なパートナーとして扱うつもりなんてなかったってこと?」
彼が目を閉じるのを見る。いい気味だ。彼も傷つけばいい。この三年間、ずっとこうだった。裏切りの味を、今度は彼が味わう番だ。
「分かってくれると思ったんだ……」彼の声は今や懇願するようだ。「会社にはこの資金が必要なんだ」
私は立ち上がった。声は震えていたけれど、なんとか抑える。「会社が必要としてる。お母さんが必要としてる。投資家たちが必要としてる。じゃあ私は、亮? あなたは私が何を必要としているか、一度でも考えたことがある?」
彼が手を伸ばしてくる。
「触らないで」私は一歩退く。
彼の伸ばされた手は宙で固まり、やて力なく下ろされた。
弁護士は置物になりきることに全力を尽くしているようだった。
「三年間、秘密の結婚」私の言葉は、計算されたように、正確に紡ぎ出される。「あなたの親戚の集まりでは、私は『ビジネスパートナー』。投資家たちの前では、『最高技術責任者』。お母さんの目には、『息子に相応しくないあの女』」
声のトーンが落ちる。冷たくなる。「あなたは私のことを一番よく知ってるって言ったわね、亮。だったら分かるはずよ。私がこの世で一番恐れているのは、母のようになることだって。男のためにすべてを捧げて、結局何も残らない人生を送ることだって」
亮の顔から、完全に血の気が引いた。
私は窓の方へ向き直る。もう彼の顔を見ていられなかった。ガラスに映る自分は、ほとんど知らない誰かのようだ。
けれど、その姿に重なるように、三年前の光景が滲み出てくる。
ある晴れた日の午後。瑞浜市市庁舎。私は簡素な白いシャツとジーンズ姿で、小さなデイジーの花束を抱えている。亮が街角の売店で買ってきた、五ドルの花束。若くて、不安で、希望に満ちていた。
「君にふさわしい結婚式じゃないって分かってる」亮が私の手を握りしめる。その目は真剣で、約束に満ちていた。「家族も、友達も、ウェディングドレスもない。でも、約束する.......」
「ウェディングドレスなんていらないわ、亮」あの頃の私は、心から笑っていた。「ただ、今日のことだけ覚えていてほしいの」
「何を覚えるんだ?」
「私たちはチームだってこと。対等なパートナーだってこと」私は真剣に彼を見つめる。「あなたの夢は私の夢で、私の夢はあなたの夢。一緒にすごいものを創り上げて、そしたら……」顔が熱くなる。「そしたら、いつか、世界中に発表できるかもしれない」
彼は私の額にキスをする。「約束する。会社が上場したら、最高の結婚式を挙げてやる。君が俺の妻で、俺の人生で一番の誇りだって、みんなに知らせるんだ」
「よろしいですか?」役所の係員が待っていた。
私たちは顔を見合わせて、にっこり笑う。「はい」
その約束は今、残酷な冗談のように聞こえる。
記憶が断片的に蘇る。
一年前の感謝祭のディナー。瑞浜市にある森川家のタウンハウス。
クリスタルのシャンデリア。銀のカトラリー。金縁の額に入れられた油絵。すべてが旧家の富と権力を物語っていた。
美奈はテーブルの主賓席に座り、私を吟味するように見ている。
「由美、亮からあなたが会社の技術リードだと伺ったわ」その口調は丁寧だった。氷のような冷たさを下に隠して。
「はい」
「素晴らしいことね。でも、ある程度の歳になったら、女の子は家庭のことも考えるべきよ。あなた、確か二十八歳?」
私が答える前に、彼女はもう亮の方へ向き直っていた。「あなたの従姉妹の沙羅、先月婚約したのよ。安藤家の次男さんと。完璧な組み合わせだわ。両家とも、とても喜んでいるの」
その言葉に込められた意味合いが、空中に漂う。テーブルにいた他の親戚たちも、意味ありげな視線を交わしていた。
その後の車の中で、私は暗い道を見つめていた。「あの方、絶対に私を認めないわ」
亮はハンドルを固く握っている。私の方を見ようとしない。「時間をくれ。母さんも、俺たちがどれだけ上手くやっているかを見れば、分かってくれる」
「亮。いつになったら公表できるの?」
沈黙。そして、「もうすぐだ。シリーズBがクローズするまで待とう。タイミングが良くなる」
私はそれ以上何も言わなかった。ただ、指にはめられたシンプルな指輪を見つめるだけ。急にそれが重く感じられた。
携帯が震え、私を現在に引き戻す。知的財産権専門の弁護士からだ。電話に出て、数秒間耳を傾ける。言葉を聞くたびに、私の表情は冷たくなっていく。
電話を切る。亮を見る。「最後にもう一つ、質問があるわ」
「何だ?」彼の声は警戒していた。
「役員会でのこと。あの株式希薄化の提案。あなたはいつから知ってたの?」
亮の沈黙が答えだった。彼は視線を落とし、私の目を見られない。
「お母様から事前に聞かされていたんでしょう?」私は尋ねていない。事実を述べている。「二人で計画したのよ。私が旅行から帰ってきた翌日に、突然投票を呼びかけるなんて。智や梨沙まで、土壇場で説得されて」
「由美、君を標的にしたわけじゃ......」
「私を標的にしてない?」私の笑い声は鋭かった。「亮。あの40%の株式は私の拒否権だった。この会社を始めた時に、私たちが合意した防御策よ。あなたのお母様はそれを34%まで希薄化させた。私はあの投票で負けた。これが私を標的にしてないって、どうして言えるの?」
私は書類をまとめ、バッグを手に取る。
「あなたは私のことを一番よく知ってるんでしょう?」私はドアに向かって歩き出す。「だったら、最初から分かっていたはずよ。私はこれにサインしない」
「由美、頼む」亮が立ち上がり、声が震えている。「条件は再交渉できる――」
私はドアの前で立ち止まる。振り返らない。
「もう交渉することなんて何もないわ、亮。明日の製品発表会で会いましょう。準備はできてるんでしょうね」
ドアが開く。廊下の光が流れ込んでくる。亮が追いかけてこようとしているのが分かる。でも、彼はその場に根が生えたように動けない。
ドアが閉まる。その音は、静かだった。
亮にとって、それは全世界が崩壊する音のように響いた。
