第2章

由美視点

三日前。午前八時十五分。

桜原テックの役員会議室。床から天井まである大きな窓から、太陽の光が洪水のように差し込んでいる。窓の外では、瑞浜区がちょうど目を覚ましたところだ。室内は、すでに息が詰まるほどの緊張感に満ちていた。

昨夜十一時に瑞浜市からの深夜便で戻ってきたばかり。瑞浜工科大学で博士論文の打ち合わせを済ませて、今日はゆっくり寝るつもりだった。それなのに、朝八時きっかりに美奈さんからメールが届いた。緊急役員会議、午前八時十五分開始。全員参加必須、と。

会議室に入ると、すでに全員が揃っていた。美奈はテーブルの首席に座り、前にはiPadが立てかけられている。亮は、いつも私が座る席の向かいにいる。エンジェル投資家の智と梨沙が、その両脇を固めている。会社の弁護士もいて、居心地が悪そうにメモ帳を広げている。

何かがおかしい。肌で感じる。

私が椅子に滑り込むと、美奈が顔を上げた。その微笑みは、完璧に磨き上げられていた。「急な召集に応じてくれてありがとう、皆さん。今日の議題はシンプルよ。トップクラスの経営人材を惹きつけるため、オプションプールを15%拡大することを提案します」

ノートパソコンを操作していた私の指が、凍りついた。

十五パーセントの希薄化。亮の持ち株は40%から34%に。私は40%から34%に。美奈は20%から17%に下がる。だが、重要なのはそこじゃない。私は拒否権を失う。35%を下回れば、私に議案を阻止する権利はなくなるのだ。

顔を上げる。美奈と視線がぶつかった。

「反対します」

彼女の微笑みは揺るがない。「由美さん、詳しく説明してくれるかしら?」

「キャッシュフローは健全です。チームの運営も順調。前四半期は全てのKPIを20%上回る成果を出しました。トップクラスの経営人材など必要ありません」一呼吸置いて、私は言った。「それで、本当の狙いは何なの、美奈さん?」

部屋が静まり返る。智と梨沙が顔を見合わせ、弁護士は手元の書類に目を落とす。美奈の微笑みは凍りついたままだが、その瞳からは温度が消えていた。

「亮、CEOとしてのあなたの見解は?」

全員の視線が亮に集まる。私もだ。心臓の鼓動がうるさいくらいに聞こえる。

お願い、亮。これが間違いだって言って。私の味方だって言ってよ。

亮は息を呑む。テーブルの縁を強く握りしめ、目の前の報告書をじっと見つめている。私の方を見ようとしない。

「……長期的な視点で見れば、これは理にかなっていると思う」

背中をナイフで突き刺されたような衝撃だった。

「いつ決めたの?」

「由美、これは……」

「いつ決めたのって聞いてるの!」私の声が部屋を切り裂いた。

智が割って入ろうとする。「少し休憩を……」

彼には目もくれない。私の視線は亮に縫い付けられたままだ。「昨日? 先週? それとも、私が瑞浜市に行く前?」

「加藤さん、言葉遣いには気をつけていただきたいわ」美奈さんの声は氷のようだ。「ここは役員会議の場です。感情的な発言をする場所ではありません」

私は彼女の方に向き直る。胸の中で、怒りが白く燃え上がっていた。「いいこと、美奈? あなたは最初から、私のことが嫌いだった。私はあなたの言うエリートサークル出身じゃない。信託財産もないし、親が市長の知り合いでもない」声を低くする。「だからあなたの目には、私はあなたの息子にふさわしくないし、この会社の株を持つにも値しない、ってわけね」

美奈の表情が硬くなる。「階級の問題なんかじゃ……」

「じゃあ何だって言うの? 私の技術? 私のアルゴリズムがなければ、この会社はただの空っぽの箱よ。私の労働時間? 週に八十時間働いてる。この三年間、まともな休暇なんて取ったこともない」一拍置いて、私は続けた。「それとも、私の野心が、あなたの息子に対する支配を脅かすから?」

亮は、体が引き裂かれそうな顔をしている。彼の母親は、他の誰もが信じなかった時に彼を信じ、自分の評判と資本を賭けて彼のスタートアップを支えてくれた。だが由美は、彼の妻であり、パートナーだ。愛しているのに、どうしても守りきれないでいる女性。

この投票が彼女の信頼を打ち砕くことを、彼はわかっている。痛いほどに。しかし、もし母親に逆らって投票すれば、彼女は資金を引き揚げるだろう。会社は潰れる。彼らが築き上げてきたすべてが……

「由美、これはビジネスだ。個人的なことじゃない」

その言葉は、平手打ちのように響いた。

彼を見つめる。まるで知らない人を見ているようだ。三年前、市庁舎で交わした約束を思い出す。二人で夜通しコーディングした日々。私たちはチームだと言ってくれたこと。

全部、嘘だった。

「ビジネス。そうね」声が震えるのを、無理やり抑え込む。

立ち上がり、バッグを掴む。誰にも視線を合わせない。

「会議はまだ終わっていませんが……」美奈が言いかける。

「私の中では、終わりました」

ドアまで半分ほど歩いたところで、私は足を止めた。振り返り、最後に一度だけ亮を見る。

「あなたは違う人だと思ってた、亮。あなたは本当に、私のことをパートナーとして見てくれているんだって」

一拍置く。

「私が間違ってた」

背後でドアが閉まる。会議室では、亮が目を閉じ、美奈は何事もなかったかのように次のページをめくっている。

地下駐車場にある自分の車へと、早足で向かう。コンクリートにヒールの音が響く。一歩一歩が、自分が築き上げてきたすべてから遠ざかっていくように感じられた。

後ろから、走ってくる足音。

「由美!待ってくれ!」

私は止まらない。

「由美、お願いだ!」息を切らした亮が追いつき、私の手首を掴んだ。

腕を振り払う。振り返って、彼を睨みつけた。「触らないで」

「選択肢がなかったんだ!母さんに逆らって投票したら、彼女は資金を引き揚げる。会社が……」

「会社がどうなるって?倒産する?だから何だっていうの?」

亮は、まるで私が正気を失ったかのような目で私を見つめている。

私は息を吸い、声を無理やり落ち着かせた。「あなたと私の違いが何か分かる?」

彼は黙っている。

「あなたは失敗が怖いんだ。家族に、親の金で生きているだけじゃないって、自分は成功できるんだって証明する必要があるの」私は一呼吸置いた。「でも私は?私はただ、正しいことをしたいだけ。たとえそれが失敗を意味しても。たとえ無一文になったとしても。たとえ周りのみんなに、頭がおかしいと思われたとしても」

「解決策はあるはずだ。きっと他に方法が……」

「もう、他の道はないの」

一歩下がり、彼との間に距離を作る。

「結婚式の日に、私に何を約束させたか覚えてる?」

亮が凍りつく。「君は……僕たちは対等なパートナーだって……」

「対等なパートナー。それは、重大な決断は一緒に下すってこと。それは、お互いを支え合うってこと。それは、誰かが私を傷つけようとした時、あなたが私の味方でいるべきだってことよ」

亮は、まるで私を抱きしめたいかのように手を伸ばす。「僕はいつでも君の味方だ」

「ふざけないで」

車のドアを開け、中に滑り込む。ハンドルを強く握りしめる。窓を下ろし、彼を見る。

「今夜、離婚届を送るわ。よく考えて、亮。お母さんのお金と支配が欲しいのか、それとも私が欲しいのか。両方は手に入らない」

エンジンをかける。車を発進させる。バックミラーの中、亮が駐車場に一人で立っている。影が長く伸び、彼は完全に抜け殻のように見えた。

赤信号。

ようやく、涙が溢れ出すのを許した。

三年。隠し続けて、ふりをして、家族の食事会では「ビジネスパートナー」、投資家との会議では「最高技術責任者」を演じ続けた三年間。彼が私を選んでくれるのを待ち続けた三年間。そして、彼は決して選んでくれなかった。

きっかり三分間、泣いた。

それから、涙を拭う。バックミラーを確認する。目は赤く腫れているけれど、その表情は決意に満ちていた。

携帯を取り出し、悠に電話をかける。

「助けてほしいの。腕のいい離婚弁護士、知らない?」

電話の向こうで、悠が息を呑む音がした。「なんてこと……本当にやるの?」

バックミラーに映る自分の顔を見る。赤く腫れた目。でも、そこにはもう一つ、何年も見ていなかったものがあった。

自由。

「ええ。やっと、自分のために生きるの」

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