第1章
絵里視点
最初に感じたのは痛みではなかった。痛みなど、どこにもなかった。まるで液体窒素のように、骨の髄まで染み込んでくる冷たさだった。
目を開けると、視界に飛び込んできたのはバスルームのタイル。我が家のバスルームのタイルが、かつてこの身に命を宿していたもので深紅に染め上げられている。
(ふざけるな……)
私はバスタブの隣に立って――いや、浮いて?絵里だったものの残骸を見下ろしていた。
手首は叫び声でもあげるかのようにパックリと開き、カミソリの刃を死んでも離すまいと固く握りしめている。バスタブの水は古い血の色に変色し、私の肌は冬の霧のような色合いだった。
(これが私の成り果てた姿。クソみたいな死体か)
階下で玄関のドアがバタンと閉まる音がした。和也が帰ってきたのだ。完璧なタイミングだった。血がまだ温かく、裏切りの痛みがまだ生々しいうちに、彼に私を見つけてほしかった。
「絵里?」彼の声が家中に響き渡る。
二年間連れ添った夫が、階段を上ってくるのが見えた。完璧な顎のラインと、その氷のように冷たい青い瞳を持つ、完璧なイケメンさん。その瞳が、私がこの刃を手に取るずっと前に、私の心を凍てつかせ、殺してしまっていた。
彼がバスルームのドアを押し開け、ほんの一瞬、その表情が完全に抜け落ちた。
そして彼は、微笑んだ。
恐怖でも、悲嘆でもない。自分の世界を失った男の、打ち砕かれたような叫びでもない。毒が広がるように、その顔にゆっくりと浮かび上がった、満足げな、緩やかな微笑み。
(いや、いや。こんなの、嘘だ)
「やっとか」彼は囁き、まるで自分の作品を愛でるかのようにバスタブの傍らに屈みこんだ。「これで沙耶香も、ようやく安らかに眠れる」
沙耶香。死んでさえ、結局はあの死んだクソ女のことばかり。
彼は私が沙耶香を殺したと信じて疑わず、だからこそこの歪んだ悪夢を仕組んだのだ。
私が死んだ今、彼はさぞかし祝杯でもあげていることだろう。
(私の自殺は無駄だった。あいつは、私が死んで喜んでいる)
「お前にはこれがお似合いだよ、絵里」彼の声は優しく、まるで愛情のこもったような響きだった。「これで沙耶香が死んだ時、どんな気持ちだったかお前にも分かっただろう」
その言葉は、物理的な打撃のように私を打ちのめした。叫ぼうとしたが、声は出ない。
私は死に、声を失い、死ぬほど愛した男が私の死体を前に喜ぶ姿を見ているだけだった。
(あなたに全てを捧げたのに!悪夢にうなされるあなたを愛し続けた!彼女を思って泣くあなたを抱きしめてあげたじゃない!)
和也は立ち上がると携帯電話を取り出し、その表情が一変した。満足感は消え失せ、代わりに周到にリハーサルされた悲嘆の表情が浮かぶ。
「110番、ですか?お願いです、神様、助けてください。妻が......妻をバスルームで見つけたんです。血が、すごい量の血が......早く来てください!」
声は完璧なタイミングで震え、かすれた。その震えは完璧に計算され尽くしている。彼はこれを練習し、この瞬間を計画していたのだ。
(この人でなし。あんた、これを望んでやがったんだ)
一時間もしないうちに、私たちのバスルームは事件現場と化した。
救急隊員、警官、鑑識官......皆が私の死体の周りで慌ただしく動き回り、その間も和也は悲しみに暮れる夫役を演じきっていた。
「奥さんは鬱の兆候や自殺願望などを見せていましたか?」西村刑事が尋ねる。
「去年、流産してからずっと不安定でした。助けようとしましたが、セラピーを拒否して…私がもっと早く気づくべきでした」
(嘘つき!あんたが私をここまで追い詰めたんじゃない!あんたが私に価値なんてないって思い込ませたんでしょ!)
だが、私を完全に破壊したのは、警察への彼の嘘ではなかった。誰も見ていない隙に、彼が私の体の傍らに跪き、その指が私の冷たい頬をなぞった、その瞬間だった。ほとんど優しさにも見えるような仕草で。
「ありがとう」彼は私の耳元で囁いた。「ようやく、俺が必要としていたものをくれて」
(愛してた。あなたを愛していたのに、あなたはその愛を武器に変えた)
最後のパトカーが走り去った後、和也は憑き物が落ちたように家の中を動き回った。
彼が最初に集めたのは私の日記帳だった。この二年間、彼から受けた精神的虐待の記録であり、その残酷さを理解しようとした私の必死の試みでもあった。
それらは、私が心から幸せそうに笑っている写真の一枚一枚と共に、暖炉の中へと消えていった。
私は彼の後を追って寝室へ行き、彼が外科手術のような精密さで私という存在を消していくのを見ていた。だが、私の箱を開け、結婚指輪に手を伸ばした時、彼の手は震えていた。
シンプルなプラチナの指輪が、彼が掲げるとランプの光を捉えた。
その瞬間、彼の仮面は完全にひび割れた。
「あいつは、俺が本気で愛していると信じていた」彼は指輪をまるで自分の犯罪の証拠であるかのように見つめ、そう呟いた。「最後の最後まで、これが本物だと思っていたんだ」
(本物だった!私にとっては、それがすべてだったのに!)
書斎で、和也は私の心理学の教科書を集めた。そして、私の心的外傷後ストレス障害治療マニュアルを開いた時、彼は凍り付いた。
ページは私の手書きの文字で埋め尽くされていた。彼を救おうと、私たちを救おうと、私が書き留めた必死のメモ。
「患者は防衛機制として感情の乖離を示すことがある」彼は声に出して読んだ。「回復には忍耐と無条件の愛が必要である」
余白は、私の狂ったような走り書きでいっぱいだった。『退役軍人が悲しみを乗り越えるのを助ける方法。サバイバーズ・ギルトの兆候。トラウマの後に信頼を再構築するためのメソッド』
「お前、本当に……」彼の声はかすれ、初めて本物の感情が滲み出た。「俺を治そうとしていたのか」
彼はその本を脇に置いた。他のものと一緒に燃やすことはなかった。
(私はあなたを愛の力で生き返らせようとした。そしてあなたは、その愛を利用して私を殺した)
和也は結局、ガレージに行き着き、エンジンを切った黒のピックアップトラックの中に座っていた。私は助手席に姿を現し、夫の顔を被ったこの怪物を観察した。
彼はポケットから私の結婚指輪を取り出し、ロザリオを繰るように指の間で転がしている。その目は虚ろで、虚空を見つめていた。
「任務完了、だ」彼は指輪に囁いた。「なのになぜ、なにもかもが……空っぽに感じるんだ?」
(あなたを無条件に愛した唯一の人間を、自分の手で壊してしまったからよ)
だが、暗闇の中でそこに座る彼を見ていると、胸の内で何かがねじれた。同情ではない――決して。しかし、彼の勝利が私の死と同じくらい空虚なものだという、吐き気のするような悟りだった。
彼が勝った。私は死んだ。沙耶香の仇は討たれた。
彼がようやくエンジンをかけ、我が家の私道からバックで出た時、目に見えない鎖が私の魂に固く巻き付くのを感じた。
私が死んだ家から彼が走り去っても、私は彼の隣に縛り付けられたままだった。
離れようとした。私の破滅を画策したこの人でなしから、漂い去ろうとした。
でも、できなかった。
なんという悪趣味な冗談だろう。私は死してなお、永遠に和也に縛り付けられてしまったのだ。
(私が死ぬことを望んだの、和也?おめでとう。これであなたは永遠に私の幽霊と一緒よ)









