第1章
雷鳴と豪雨の夜。廃れた監獄の、さらに奥。
酒井初音は鎖で手足を繋がれ、肌には針穴がびっしりと並んでいた。皮膚はただれ、どこもかしこも熱を持っている。
目元は血に滲んだ白布で縛られ、髪は乱れ、唇からは生者の色が抜け落ちていた。
痛い。全身が、ずきずきと悲鳴を上げる。
けれど長年の飢えと失血で、もはや暴れる力すら残っていない。
――五年。ようやく……死ねるの?
「お姉ちゃん。目を失うって、どんな気分?」
甘く柔らかな声が、耳の奥を刺した。
「御影怜司が褒めてたよ? お姉ちゃんの目、私より綺麗だって。……でも残念。もう私のものなの」
久世美月が近づく。雪のように白いロングドレスが、彼女を清純で可憐に見せていた。
床に転がる初音とは、まるで別世界――雲泥の差。
その声だけで、初音の身体がびくりと震えた。
「久世美月……あんた、狂ってるの? 私は、あんたの実の姉よ!」
白布の下、見えないはずの視線を必死に向ける。
目の前の少女は、同じ母から生まれた二卵性双生児の妹。だからこそ、疑ったことなど一度もなかった。
「違う」
美月は笑い、吐き捨てるように言った。
「私はね、あんたみたいな下賤で汚い女を姉だなんて思ってない。三歳のとき、わざと人さらいに渡して捨てたんだから……戻ってくるべきじゃなかったのよ。パパとママと、五人のお兄ちゃんの愛を奪いに来ないで」
そして、囁くように。
「でも、もうすぐ全部終わる」
外の足音を計ったように、美月は初音の手の拘束を解き、床へ投げ捨てた。
次の瞬間、鎖を掴み――自分の首へ、ぎゅっと巻きつける。
白い首に、みるみる赤い痕が浮かび上がった。
初音は弱り切っていて、逃げることも、止めることもできない。
美月はわざと初音の下へ潜り込み、怯えた目に涙を溜める。
「お姉ちゃん、やめて……私の目を抉らないで……!」
「角膜のこと、わざとじゃないの……私だって苦しかった……ごめんなさい……」
「来ないで……パパ、ママ、お兄ちゃんたち……美月、怖い……!」
美月は初音の手を引き、己の目元へ――あと一寸。
その瞬間。
ドンッ、と牢の扉が蹴破られた。
「酒井初音! てめぇ、死にてぇのか?」
両親と五人の兄が雪崩れ込み、美月を引き剥がして背に庇う。
皆の視線は、まず美月の首の傷へ吸い寄せられた。
初音へ向けられるのは、冷たく、怒りに満ち、それでいて「情けないものを見る」色。
パァンッ!
久世隆臣の平手打ちが頬を裂く。
痛みが脳髄まで突き抜け、眼窩から血が溢れ、白布を真っ赤に染めた。
「酒井初音! 美月に角膜を移植させたのは俺の命令だ!」
「お前みたいな前科者が出所したところで、久世家の恥さらしにしかならん!」
「美月の目はな、直哉を助けようとして傷ついたんだ。お前は兄たちのために何をした?」
「役立たずが。目を差し出せるだけでもありがたく思え!」
喉の奥に何かが詰まる。胸が砕けるのに、吐き気がするほど気持ち悪い。
――私が、何もしてない?
久世家に戻って四年。
長兄・久世哲哉が金融の世界でのし上がるため、初音は狂ったように勉強し、夜通し資料を読み、企画を練った。目が潰れそうになるほど。
だが成功の果実は、美月の宝石とドレスに変わった。初音には何もない。褒め言葉ひとつすら。
次兄・久世直哉は医師。研究に没頭する彼のため、初音は人体実験の「被験者」になった。腕に針穴を並べられても、痛いと叫んだことはない。
事故で脚を悪くした彼のため、病院が匙を投げても、古い鍼灸書を漁り尽くし、治療法を探した。
三兄・久世湊が頂点へ行くため、匿名で曲を作り、振付を考え、名を求めず影で支えた。
四兄・久世悠真の神経が張り詰めるたび、香りを調合し、按摩を学び、ツボを押して眠らせた。
末の兄・久世玲央は同じ大学に通いながら不真面目で、試験の不正の罪を初音に被せた。結果、初音は退学処分――。
それでも初音は、血の繋がった家族だと信じ、溶け込もうと必死だった。
けれど――彼らの心は、最後まで温まらなかった。
次兄・久世直哉が、すっと前へ出る。
長身で、穏やかな貴族のような気配。初音の惨めな姿を見て眉をひそめた。
胸のどこかが、ほんの一瞬だけ疼いた。だがすぐ消える。
「酒井初音。意地を張るな」
「美月に謝れ。そうすれば……お前の悪意を追及しない方向で考えてやる」
角膜を奪われて、なお謝れ?
笑わせる。
初音は乾いた声で笑った。
「……謝る? なんで私が」
「死ぬべきは、あいつよ」
その一言で、直哉の眉間に皺が刻まれる。
「お前は……本当に、救いようがない!」
美月はすかさず直哉の腕を掴み、首の痕を隠すようにしながら囁く。
「直哉兄、怒らないで……脚の傷、まだ治りきってないのに……」
その言葉に、直哉の目が柔らかくなる。
――美月のおかげで、自分はまた立てる希望を得た。
なのに初音は、彼女を虐め、殺そうとした。
自分がさっき一瞬でも初音を許そうとしたことが、腹立たしい。
「やっぱり美月が一番いい子だ」
美月は弱々しく首を押さえ、かすれ声で言った。
「パパ……お姉ちゃんが受け入れられないなら、角膜……直哉兄に戻してもらう……?」
「美月は返さなくていい」
久世隆臣は床に蜷局を巻く初音を見下ろし、嫌悪を滲ませて言い放つ。
「酒井初音が言うことを聞かないなら、このままずっと盲目でいろ」
二十年前。双子を連れて出かけた折、久世隆臣は占い師に言われたことがある。
姉は災いを呼ぶ星、妹は家を栄えさせる福の星――。
三歳で初音が消え、美月だけが戻ってきたことで、彼はそれを信じ切った。美月こそが幸運なのだと。
「全部、お前の祖父のせいだ。あいつが無理やり連れ戻した」
「死んでも遺言で株を20%残すだと? こいつにそんな価値があるか!」
吐き捨てたあと、久世隆臣は急に声色を変えた。
「酒井初音。株式譲渡の書類だ。署名しろ。そうすれば、早めに保釈してやる」
初音は冷笑した。
五年前、盲目の心で久世家の罪を被って入獄した。いまさら出所が「餌」?
――信じるわけがない。
そのとき。
ゴロゴロ……ッ!
雷鳴が夜空を裂き、避雷針を伝った稲妻が落ちる。
監獄の周囲に撒かれていたガソリンへ――火が走った。
「火事だ!」
「美月を守れ!」
両親も兄たちも、美月を庇って我先に逃げ出す。
危機のたび、いつもそうだった。床に転がる初音のことなど、誰も思い出しもしない。
足音が遠ざかり、熱波が押し寄せる。
初音は這い出そうとした。
だが足の鎖は――外されていない。
美月は最初から、初音を焼き殺すつもりだったのだ。
炎が迫る。喉が焼けるほどの熱の中、初音は呪詛のように吐いた。
「久世家……久世美月……来世があるなら、血で償わせてやる……!」
そして、弱り切った身体は火海へ沈む。
焦げ、崩れ、灰になるまで。
――死後も、初音の魂は怨嗟を抱えたまま、監獄の廃墟に縛りつけられた。
火が消えても、久世家の誰一人、彼女を探しに来ない。
その代わり。
かつて自分が残酷に捨てた、障害を負った元夫が戻ってきた。
男は車椅子から転げ落ち、灰の中を七日七夜、這いずり回って探した。
ただ一握り――彼女の骨灰を拾うために。
八日目。
乞食のようにぼろぼろになった男が、鎖のそばの灰を、両手でそっと掬い上げる。
誇り高く、誰よりも尊大だった背中が――その瞬間、折れた。
震える指が焦灰に触れる。
御影怜司の声は低く掠れ、狂おしいほど優しかった。
「初音……怖くない。俺が迎えに来た。帰ろう」
三か月後。
久世家は前代未聞の経済的打撃を受ける。
久世美月は忽然と消え、見つかったときには手足を折られ、目だけが――奪われていた。
続いて、久世家の者たちが次々と不可解な死を遂げる。
帝都から、久世家は跡形もなく消えた。
静かな昼下がり。
初音の魂はいつものように彼のそばを漂っていた。
御影怜司は屋敷の使用人を全員下がらせ、骨壺を抱いて庭で日向ぼっこをしている。
伏し目がちに、骨壺の縁へ口づけた。
「初音……今度は、お前が俺を家へ連れて帰ってくれ……」
次の瞬間。
天を舐める火柱が屋敷を呑み込み、初音の絶叫さえ焼き尽くす。
「怜司! やめて――!」
