第4章
御影怜司の病が、銀針一本でどうにかなるはずがない。まして脚の持病まである。必要になる薬材は山ほどあった。
酒井初音の薬箱はまだ久世家に置いたまま。取りに戻らなければならない。
昼食を軽く済ませると、初音は御影怜司のそばにいる護衛――三村正明を呼び出した。
御影邸で、怜司以外に多少なりとも顔見知りなのは、今のところ彼くらいだ。
前世では、三村正明は自分にずいぶん辛辣で、露骨に不機嫌な顔を向けてきた。
それでも――自分が灰になったあと、骨壺に納めるのを怜司と一緒に手伝ったのは彼だった。ときどき骨壺を見つめたままぼんやり立ち尽くし、ため息を落としていたことも、初音は覚えている。
――
一時間後。黒いロールスロイス・ファントムが久世家の門前で止まった。
御影家の車だと分かると門が開き、車はそのまま敷地内へ入っていく。
曲がりくねった道を進み、車は少し荒れた小さな院の手前で停車した。ここから先は徒歩で行くしかない。
初音は降りると、三村正明に言った。
「ここで待ってて」
そうして迷いのない足取りで院へ入る。古びた塀は色褪せているのに、周囲には薬草や花がびっしり植えられ、どこか温かな空気が漂っていた。
入ってすぐ、質素な身なりの五十歳前後の女性が駆け寄ってくる。
「お嬢さま……やっとお戻りに? ほら、見せて。うちのお嬢さま、いじめられてない?」
柔らかいのに少し掠れた声が震え、自責の嗚咽に変わった。
「私が不甲斐ないから……守ってあげられなかった」
胸の奥がじんと熱くなる。初音は衝動のまま中村の胸に飛び込み、目に涙を溜めた。
前世。初音は久世家の尻拭いをさせられて投獄された。
久世家の人間が面会に来るのは、ほとんど年に一度。
けれど中村だけは、ほぼ毎月来てくれた。差し入れの甘いもの、寒さをしのぐ衣類――。
十六歳で久世家に戻ったとき、初音の部屋はすでに物置になっていた。家中の関心は、心臓発作を起こした久世美月に向いていて、初音のことなど誰も気にしない。
だから中村が、この小さな院に連れてきて、一緒に寝起きした。
真冬。中村は初音を布団の中に包み込み、泣きそうな声で言った。
「うちのお嬢さまだって、本当は大事にされるべきなのに……」
「どうして誰も覚えてないの。酒井初音……久世初音……初音だって、久世家のお嬢さまなのに」
けれど、十六で帰ってきて、二十で美月の代わりに御影家へ嫁がされるまでの四年間――久世家の誰一人として、初音の名前を元に戻そうとはしなかった。
それでも当時の自分は、取り憑かれたみたいに「認められたい」一心で、必死に尽くして、最後には自分を壊した。滑稽なくらいに。
その執着のせいで、ずっと優しくしてくれていた中村の存在を、どれほど見落としていたのだろう。
血のつながりなんてなくても――この人は、家族以上に自分を家族として扱ってくれていたのに。
初音は呼吸を整え、中村に言う。
「何回言ったら分かるの。初音でいいって」
「今日は荷物をまとめて、御影家に持っていくの」
「私……新しい家ができたから」
眉目に笑みを宿し、澄んだ瞳がやわらかく細まる。笑うと口元に小さなえくぼができた。見ているだけで、つられて気持ちがほどけてしまうような笑顔。
――どうせ、御影怜司は自分の夫になる人だ。必ず手に入れる。これからは御影邸が、自分の家。
その言葉に中村はぎょっとした。初音が純粋すぎてまた傷つくのではと不安になる。けれど同時に、心から嬉しくもあった。
「そう……そうね。よかった。じゃあ私も手伝うわ」
久世家は中堅の名門だ。初音も十八の頃には一度、本邸のほうに住まわされた。
ただ、そこに置いていた私物は驚くほど少ない。
哲哉のために徹夜で企画書を作り、直哉のために古い文献を漁って薬を調べ、湊のために作曲と振付を組み、悠真のために香を調合して安眠を促し、玲央のためにボクシンググローブを手縫いした――そのすべてを、この小さな院でやってきたのだ。
初音は三村正明も呼び、荷物の大半を車に積み込んだ。
けれど、鍼の道具一式だけは本邸の二階にある。結局、自分で取りに行くしかない。
初音はひとりで本邸へ入った。
「御影家の車がうちに入ったって聞いたのに、酒井初音はまだ謝りに来ないのか?」
「湊、お前ちゃんと言ったのか。美月が作った企画を返せって」
「姉なんだからさ、妹のものを自分のものみたいにするなんて……恥ってものがないのかよ」
久世哲哉は横顔の輪郭が鋭く、それでいて端正だった。背は高く、姿勢は真っすぐ。スーツを着こなし、広い肩と引き締まった腰が目を引く。落ち着いた、仕事のできる男の空気。
いまは瞳が黒く沈み、怒りが眉尻に滲んでいる。左のまぶたには薄い小さなほくろがあった。初音にも同じ位置に同じほくろがあるのに、気づく者はほとんどいない。
久世美月は淡い紫のロングドレス。黒髪のストレートが背に流れ、整った顔立ちが映える。
美人ではある。ただ心臓病のせいで眉目がいつもどこか疲れたように伏し、触れれば壊れそうな儚さをまとっていた。
美月は慌てて哲哉の手首を掴み、無邪気な笑みを浮かべる。
「怒らないで。お姉ちゃんは、私の企画を盗んだりしないよ。お姉ちゃんだって、ちゃんと実力が――」
だが、久世湊はさっき初音にブロックされたばかりで、腹の虫が収まらない。言葉が刺々しくなる。
「実力? T大に退学させられそうな実力のこと?」
「成績もダメ、人としてもダメってことだろ。試験でカンニングまでして、親呼ばれて退学寸前なのに、まだ庇うの?」
湊が吐き捨てると、その場の空気が一気に冷えた。まるで「酒井初音は恥」だとでも言いたげな顔つき。
どうして自分たちに、こんな妹がいるのか。美月のほうが何もかも上だ、と。
美月は心臓病を抱えながらも芸能界に入り、ドラマの仕事をこなして、すでに小さな知名度まで得ている。
それに比べて酒井初音は――誇れるものが何ひとつない。
美月は困ったように眉を寄せ、湊を見てやんわりと叱る。
「湊兄、きっと何かの誤解だよ。お姉ちゃん、成績はずっと上のほうだったし……美月、ずっと羨ましかった」
「美月は身体が弱くて、勉強まで手が回らないし……ダンスも、心臓のせいで続けられなくなっちゃった」
悔しさと諦めを滲ませた声。眉がかすかに曇り、守ってあげたくなるような表情。
――玄関を入ったばかりの初音の耳に、その言葉が届いた。
哲哉と湊は美月を慰めようとしていたが、ふと視線が入口へ向く。ようやく現れた初音を見た瞬間、二人の顔が揃って暗くなった。
「酒井初音……まだ帰ってくる顔があったのか」
哲哉は薄い唇に嘲りの弧を刻み、叱りつけるように言う。
湊は唇を尖らせ、わざと横を向いた。今にも「ほら、謝れ」と言い出しそうな態度だ。
美月は口元を上げ、目を細めて小走りに近づいてくる。
「お姉ちゃん、やっと帰ってきた」
「ごめんね。美月のせいで、お姉ちゃんは御影家に嫁がなきゃいけなくなったんだもん。怒るのも当然だよ」
そう言って手を伸ばしてくる――が、初音はふわりと身を引き、触れさせなかった。
その仕草だけで、哲哉と湊の頭には例の件が蘇る。初音が美月を恨み、わざと金融企画の入ったUSBを盗んだ――という筋書き。
哲哉は初音の顔を睨み、眉をきつく寄せた。声がさらに厳しくなる。
「酒井初音。さっさと企画を美月に返せ」
初音は三人を無表情で見返した。可笑しくて仕方がない。
またこれだ。事情も確かめず、問答無用で自分に罪をかぶせる。前世で何度も味わった光景。
けれど今回は、胸が揺れない。波ひとつ立たない。
初音は唇を吊り上げ、哲哉をまっすぐに見据えて、一語ずつ叩きつけた。
「その企画は、私が徹夜を五日続けて作ったの」
「どうして私が、あの子に渡さなきゃいけないの?」
哲哉の眉間に険が増す。信じられない、失望した――そんな顔で一歩詰め、少女の薄い肩を乱暴に掴んだ。
「酒井初音……恥を知れ」
「美月は昔から嘘をつかない。嘘をつくはずがないだろ。俺も湊も、美月が五日徹夜してるのを見てたんだ。その成果をお前が私欲で盗んだ……いつからそんなに性根が腐った?」
初音は、怒りで逆に笑いが込み上げた。
肩を掴む手を振りほどき、一歩引いて距離を取る。
「私が性根が腐ってる? あなたたちに比べたら、まだマシよ」
