第5章
酒井初音の言葉と、一歩引く仕草だけで、久世怜司と久世湊の顔色は完全に沈み切った。
久世湊が冷たく吐き捨てる。
「酒井初音……また何を発狂してる?」
「怜司はお前を心配してる。美月は被害者だ。みんな、お前が認めて謝るための機会をやってるんだぞ。いい加減、図に乗るな」
以前の酒井初音なら、胸の奥に悔しさを押し込めて、まずは笑って二人の兄に取り入っただろう。
だが今の酒井初音は、彼らよりも冷たい目をしていた。
態度も、彼らより硬い。
空気が張り詰めたのを見て、久世美月が仲裁役みたいに身を寄せる。久世湊の服の裾をつまみ、柔らかい声で言った。
「湊兄……お姉ちゃんを怒鳴らないで。私の代わりに御影怜司に嫁いでくれたんだし、私は責めたりしないよ……」
言葉は寛大なのに、顔には「我慢してます」とでも言いたげな、薄い悔しさが滲む。
「身代わりは身代わり、企画を盗んだのは盗んだだろ。ごっちゃにするな」
久世湊は視線を落とし、美月を宥めるように続けた。
「それに、親父と母さんと祖母に頼まれて代わりに行くって、自分で承知したのはあいつだ。美月は何も知らなかった。お前は関係ない」
「美月、お前は優しすぎる。いつもそうやって弱くて、酒井初音に好き放題させるな」
そう言いながら、久世湊は久世美月の頭を撫でる。
酒井初音への態度とは、あまりにも違う。
久世美月は小さな顔を上げ、無邪気に笑って甘えた。
「湊兄、いてくれてよかった」
それから、わざとらしいほど優しい声で付け足す。
「でも、お姉ちゃんも家族だもん。ちょっと機嫌が悪いだけだよ」
久世怜司は、妹の「できた」姿を見て、反対に酒井初音の冷たく硬い態度を見た。眉間に深い皺が刻まれ、不快感が限界まで膨れ上がる。
「機嫌が悪い? 違う。お前が甘いから、調子に乗ってるだけだ」
「善悪も分からず、妹をいじめ、兄に逆らう。どんどん礼儀がなくなるな」
久世怜司の眉眼は鋭く、薄い唇がきゅっと結ばれる。冷たく凶暴な気配が、まっすぐ酒井初音へ向いた。
「酒井初音。どうあろうと、今日は美月の企画のUSBを出せ。出さないなら帰れない」
「荷物を取りに来たんだろうが、久世家にあるものは全部お前の物じゃない。一つも持っていくな」
別に、酒井初音を追い詰めたいわけじゃない。
久世怜司にとって必要なのは、ただ一つ。酒井初音が頭を下げて、非を認めること。
間違ったなら、責任を取る。それだけだ。
酒井初音は、もう相手をする気すらない。冷えた声で言い捨てた。
「どけ。あんたなんかに用はない」
そのまま、階段へ向かって歩き出す。
「お姉ちゃん……怜司兄に、謝ったら?」
久世美月が慌てて追い、手を伸ばす。
「私たち、家族なんだよ。仲良くしよう……?」
だが酒井初音の歩みは速い。久世美月は追いつこうとして、長いスカートに足を取られた。倒れかけたところを、久世怜司が咄嗟に支える。
久世美月が小さく甘えた声を漏らす。
「あっ……痛い……」
そして涙目のまま、か細い声で言った。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……怜司兄も湊兄も、わざと怒ってるわけじゃないの。責めるなら、私だけにして……」
久世湊はすぐに駆け寄り、しゃがみ込んで久世美月の足首を握る。顔が歪むほど心配した。
「美月……今すぐ家庭医を呼ぶ!」
そう言いながら、酒井初音を睨みつける。
「酒井初音、いい加減にしろ!」
「美月に謝れ!」
久世美月は痛みに涙を滲ませながらも、弱々しく首を振る。
「湊兄……お姉ちゃんを責めないで。私が不注意で捻っただけ……」
「お姉ちゃん、まだ怒ってるだけなの。気づかなかったんだよ……」
言葉は優しいのに、声はどんどん委屈に濡れていく。
それでも歯を食いしばって耐える――そんな演技。
久世湊の怒りが、ぷつりと切れた。
彼は酒井初音の手首を乱暴に掴み、強く拘束する。
「謝れと言ってるだろ!」
酒井初音は無表情のまま、その手を振り払った。
久世湊はよろけて数歩下がり、信じられないものを見る目で彼女を見た。
「謝らないと、どうなるの?」
酒井初音は眉を上げ、濡れた杏色の瞳を細めて、嘲るように揺らす。
「久世美月が足を捻ったのが、私のせい?」
そして、久世怜司に支えられている久世美月へ、すっと歩み寄った。
「分かった分かった。そこまで言うなら……」
次の瞬間。
酒井初音は、皆の目の前で足を上げ――久世美月の足首を、容赦なく蹴り抜いた。
「ガキッ」
乾いた、骨の音。
あまりに鮮烈で、耳に残る。
「今の一発が、私のやったこと」
酒井初音は口角を吊り上げる。表情は淡々としていた。
さっきまでの冷ややかさが剥がれ落ち、隠していた傲慢なまでの奔放さが、一気に露わになる。
その一蹴りで、久世怜司と久世湊の怒りは爆発した。
酒井初音に一番近い久世怜司が、手を振り上げる。瞳には燃えるような怒気。
掌が彼女の頬を打つ寸前――大きな手が、がしりとその手首を掴み止めた。
久世怜司の平手は、酒井初音の頬からほんの一寸のところで止まる。
続けて、久世怜司は強く突き飛ばされた。支えていた久世美月ごと、床へ転がる。
「奥様、ご無事ですか」
酒井初音の隣に立ったのは、三村正明だった。
大木のように揺るがない。屈強な体躯、背丈は1.9メートル。元ボクサーの用心棒で、力の塊みたいな男だ。
三村正明は、そこにいる二人の男と一人の女を一瞥し、眉を寄せて低く唸った。
「奥様は御影家の人間です。久世家が手を出す筋合いはありません」
あまりの迫力に、久世美月は怯えて久世怜司の胸元へ潜り込む。
久世怜司は美月を庇いながら立ち上がったが、顔色は青白く、屈辱で歪んでいた。
久世湊は怒りが一瞬しぼんだものの、それでも血走った目で酒井初音を睨み続ける。
酒井初音は淡々と言った。
「平気。上に行く。荷物を取るだけ。ついてきて」
余計な視線すら、もう彼らにやりたくない。
華奢な身体なのに背筋はまっすぐで、今は顔に傷があっても、妙に目を引く。知りたくなるような、得体の知れない気配。
泥の中で生き返った、冷たい蓮の花。
脆そうで、なのに凛として独り立つ。
久世怜司は、その背中を見つめながら、ふと胸の奥がざわついた。
――こんな女だったか。
久世湊は怒りを噛み殺し、しゃがんで久世美月の足首を揉み続ける。
久世美月は、酒井初音が階段を上がっていく足取りを見つめ、薄茶の瞳を静かに沈めた。
酒井初音が自室へ入ると、部屋は荒らされていた。
鍼灸の道具袋から抜き取られた銀針が、ぐにゃりと折られてベッドの上に撒かれている。
少しでも気づかず横になれば、刺さる配置。
そして廊下の向こうでは、数人の使用人がこそこそと様子を窺っていた。中心にいるのは、久世美月付きの田中美咲。口元に「してやったり」の笑みが浮かぶ。
田中美咲が嘲るように笑った。
「酒井初音、結婚したんじゃなかったの? しかも、顔に傷のある障害者の役立たず男に」
「なに、まだ二日目なのに、もう男を連れ込んで好き勝手してるわけ?」
御影家の車が久世家に入ってきた時から、田中美咲は屋根裏で待ち構えていたのだ。
酒井初音の隣に、健康そうな男がいるのを見て、下劣な嘲笑をぶつける。
どうせ昔の酒井初音は、久世家に気に入られるためなら自分にまで媚びてきた。
だから、今も同じだと高を括っている。
酒井初音は動じずに歩み寄り、田中美咲の首を片手で掴んだ。
そのまま――銀針だらけのベッドへ、叩きつけるように放り投げる。
「ぎゃああああっ!!」
悲鳴が、久世家の屋敷に響き渡った。
酒井初音は目尻をきゅっと吊り上げ、笑みを作る。甘い弧を描く目元、浅いえくぼ。可憐さの奥に、悪意が潜む。
「もう一回、言って」
そして、澄んだ瞳を深く暗く沈め、ベッドの縁から身を屈める。笑みはさらに甘くなった。
「御影怜司が、どうしたって?」
その瞬間、田中美咲の頭皮がぞわりと粟立つ。
たった一晩で――酒井初音は、別人になっていた。
