第2章
新山晃は、氷のように冷えた眼差しを持ち上げ、目の前の――息をのむほど美しい女を見据えた。
生まれてこの方、能力を疑われたことなど一度もない。
なのにこの女は、腕前どころか……そっちまで疑ってきたのか。
星野結花は、その殺意じみた視線に気づいたのか、慌てて声を張り上げる。
「2万! 2万ならいいでしょ!」
「2万で俺を一晩買うつもりか。いい度胸だな」
怒りを噛み殺したまま、新山晃は薄い唇を開いた。
「度胸じゃないよ。美貌だよ。私、顔がいいもん」
星野結花はぱっと花が咲いたみたいに笑い、ぱちんと瞬きをする。肩をぽん、と叩いて言った。
「はい決まり。2万ね。私、急いでるの!」
そう言い捨てて、くるりと踵を返す。
だが――
氷山みたいな男の顔は、相変わらず無表情のまま。
新山晃は星野結花の手首を掴み、軽々と車のドアへ押しつけた。
「来い」
「一回きりの取引でしょ、そんな――」
反抗しようと腕を上げた、その瞬間。
「いた! 星野結花だ!」
記者の、喜びと興奮が入り混じった叫びが飛んできた。
星野結花は即座に車へ滑り込む。
「……ついてく! 私、ついてくから!」
新山晃は変わり身の早さに眉をひそめたが、結局そのまま車に乗り込んだ。
「星野結花! 星野結花!」
「本物だ! 撮れ! あの男、父親じゃね!?」
黒い車が低く唸り、猛スピードで走り去る。
記者たちは避けるのに必死で、まともな映像は一枚も撮れなかった。
「くそっ! あいつ、逃げ足だけは上達してやがる!」
苛立つ声が、後方に置き去りになる。
……
車内。
星野結花は平然とスマホを取り出し、乱れた髪を整え始めた。
「はぁ……あいつらほんと狼みたい」
それから隣の氷山顔にさらっと言う。
「ねえ、景江橋まで送ってくれればいいよ!」
新山晃は彼女を見もせず、腕時計に視線を落としただけだった。
「飛ばせ」
「かしこまりました」
しばらくして、星野結花は違和感に気づく。
「……この道、景江橋じゃない! どこ連れてくの?」
端正な横顔を睨みつける。
「約束破るの? さっき送るって――」
「お前が言っただけだ。俺は承諾していない」
新山晃の視線が、星野結花の焦りを帯びた顔へ移る。
「俺の子供を腹に入れて俺の車に乗って、まだどこへ逃げる気だ」
「誰があんたの子供を腹に入れてるの! 妊娠してない!」
桃の花みたいに艶やかな頬が、怒りで赤く染まる。
星野結花は強がって脅した。
「降ろさないなら通報する!」
「星野結花、いい加減にしろ」
新山晃の声は冷え切っていた。眼差しにも、抑えた怒りが滲む。
「社長、着きました」
車は病院の前で止まった。
新山晃が降り、ドアを開けて星野結花を見下ろす。
「病院? なんで病院!?」
星野結花は青ざめる。
「妊娠してないって言ってるでしょ! トレンドは嘘!」
新山晃は何も言わない。
ただ腕を伸ばし、星野結花を容赦なく引きずり出した。
裸足だと気づくと、少し身をかがめ――肩に担ぎ上げ、そのまま病院の入口へ。
「私ほんとに妊娠してない! 放して!」
星野結花は細い腕で背中を叩きながら訴える。
「私みたいな可憐でか弱い女の子を、今このタイミングで産婦人科に連れてったら誤解され――」
「黙れ。これ以上うるさいなら、床に捨てる」
新山晃は人生でここまで騒がしい女を見たことがなかった。
「妊娠してない! あと肩硬すぎ! 痛いんだけど!」
「妊娠してるかどうか、すぐ分かる」
低く、艶のある声。
……
検査を終え、ソファに放り出された星野結花は髪も乱れ、目尻を赤くしていた。
新山晃の目に、ほんのわずか揺れが走る。――揺れというより、泣き声がうるさすぎた。
「乱暴すぎる……うぅ」
星野結花は涙を拭う。
「妊娠してないって言ったのに! 誘拐で訴える!」
新山晃は額を押さえ、腕時計を一瞥した。
コンコン。
「入れ」
「新山社長、結果が出ました」
女医が検査票を差し出す。
「星野さんは妊娠8週です」
8週。
時期は合う。
星野結花は石像みたいに固まった。
妊娠。8週。
このクズ男の子だ。生きてきて、男としたのは一回――あの夜だけ。
「胎児は現在問題ありません。ただし星野さんは丁寧なケアが必要です。無理は禁物、食事は健康的に、生活リズムも整えてください」
新山晃は意味深な視線を星野結花へ向け、星野結花は首をすくめた。
「分かった。下がれ」
「失礼します」
医師が出ていく。
新山晃は検査票を一瞥し、星野結花の前へ歩いた。
「どうした。俺の子供を連れて逃げて、数年後に『子連れ帰国』でもやるつもりか」
検査票が、ひらりと星野結花の胸元へ落ちる。
「妊娠してても、あんたの子って決まったわけじゃない!」
星野結花は検査票を握りしめ、鼻をすすった。
「帰る!」
「俺の子じゃない?」
新山晃は冷笑し、机の書類を手に取る。
「この二か月のお前の行動は全部ある。何を食べたかも、何時何分に何をしたかもな」
「星野さんは言うのか。一人で妊娠できるほどの才能があると」
「調べたの!?」
星野結花は書類を奪ってめくる。
何時何分、どこのデリバリーを頼んだかまで書いてある。マネージャーの桜井美優の分まで、異様に細かい。
「このクズ男……パパラッチの親玉かよ! ストーカーより――」
「落ち着け」
新山晃はソファに座り、淡々と水を注いで星野結花の前に置いた。
「俺の子に傷がつくのは困る」
「……っ」
星野結花の瞳に怒りが渦巻く。
「感情を片づけろ。家に連れて帰って安静にさせる」
「誰があんたの子を産むのよ!」
星野結花は顔を背け、歯を食いしばる。
「一夜の関係なんて、残せない!」
新山晃の目が冷えた。
彼は星野結花の顎を掴み、涙を溜めた美しい瞳を覗き込む。
「俺、新山晃の子を消すなら――命はない」
新山晃……!
星野結花の瞳孔が震える。
地下駐車場は暗く、車内でも後部座席で顔がよく見えなかった。
今、目の前の男は輪郭が鋭く、濃い眉の下には鋭く冷たい眼差しがあった。高い鼻筋、薄い唇。
どこから見ても冷酷で、容赦がない。
――この男は、新山晃。
RGグループの社長。
27歳でZ国の経済界を震わせる大物。
手段は苛烈、冷徹で容赦がなく、謎めいていて恐ろしい。それでいて人を惹きつける――そんな噂の男。
以前、会社の社長が酒の席で言っていた。
もし新山晃が倒れたら、Z国の経済の流れすら揺らぐ、と。
