第7章
星野結花はそれを聞くと、にこにこと笑って答えた。
「じゃあ……いいよ!」
新山晃は車のドアを押し開け、そのまま降りる。
星野結花は、男の真っ直ぐで凛とした背中を見送りながら、唇の端をふっと上げた。
――顔が氷みたいに冷たい以外、欠点なくない?
そのまま新山晃のあとを追って別荘へ入る。
黒とグレーでまとめられた内装は、贅沢なのに品がある。広いリビングの大きな窓からは、S市のきらめく夜景が目の前に広がっていた。
家具も装飾も、住人の趣味が透けて見える。見惚れながら歩いていた星野結花は、ふいに男の硬い背中へぶつかった。
「いっ……」
額を押さえ、顔を上げる。
新山晃は振り返り、叱る言葉を口にしかけた。だが、星野結花の潤んだ瞳に混じる小さな悔しさを見て、言葉を飲み込む。代わりに手を伸ばし、額を軽く揉んだ。
「もう母親になるんだろ。まだそんなに雑か」
星野結花はぱちぱちと瞬きをして、軽く笑う。
「だって、まだ新山……あなたに教えてもらわないと」
新山晃が眉をわずかに動かす。
「……ああ」
そう言うと、背を向けてキッチンへ入っていった。
――え、素直。
星野結花は腕を組み、くすっと笑う。
言えば言うほど調子に乗るタイプ?
新山晃がふと振り返る。星野結花の小さな表情を見て、彼は悟った。
この女は、見た目ほど大人しくない。
……まあ、猫を被るのも悪くない。
星野結花はキッチンの入口を見て、心の底から拒絶した。
――また食事? 地獄。
「来い」
低く落ち着いた声が、耳に刺さる。
星野結花は渋々キッチンへ入った瞬間、口元を押さえた。
「うっ……」
次の瞬間。
「おえっ……!」
ゴミ箱へ突っ伏し、えずく。
「わ、私……朝、いっぱい食べたから……ほんと無理……」
「おえ……っ、うぅ……」
目尻が赤くなったまま、新山晃を見上げてぱちぱちと瞬く。
新山晃は淡々と言った。
「俺と結婚してから、少しは上達したな」
「当然!」
星野結花はすぐに媚びへ切り替える。
「あなたみたいな成功した企業家って、昔なら王様――」
「昨日より演技がマシだ」
新山晃は視線を落とし、珍しく評価だけを投げた。
星野結花は言葉に詰まる。
――このクズ男、毎回バラす!
「腹が減ってないなら食うな」
新山晃が水のグラスを置く。
「やった!」
星野結花はぱっと立ち上がり、逃げようとした。
そのとき、使用人が控えめに声をかける。
「奥様、旦那様がシェフにハンバーガーをご用意させました。召し上がりませんか」
星野結花の目がきらりと光った。
くるりと向き直り、ダイニングテーブルへ素早く座る。指先をこすり合わせながら、しれっと言った。
「急にお腹すいた。不思議」
「そうか」
新山晃は箸を取り、星野結花の皿に料理を取り分ける。
「これを食べたら、好きなものを食え」
星野結花は露骨に嫌そうな顔で腹に手を当てた。
「別に私が食べたくないわけじゃないの」
そして笑いながら新山晃を見る。
「ベビーが、これ嫌だって」
新山晃は小さく息を漏らす。笑いとも、呆れともつかない。
「まだそんなに小さいのに、母子で通じ合ってるのか」
「当然!」
星野結花は小刻みに頷く。
「だって、お腹の中だもん!」
「こいつは食べたいと言ってる」
新山晃の声は低く、澄んでいた。
「どうして分かるの?」
星野結花が首を傾げる。
「俺の子供だからだ」
新山晃はミルクを彼女の前へ置く。
星野結花、完敗。
深く息を吸い、心の中で自分に言い聞かせる。
――耐えろ。怖いだけ。怖いだけだ。
海老を噛みながら、星野結花は新山晃の整いすぎた顔を盗み見た。
RGグループ社長・新山晃。Z国で「独身男性人気No.1」と噂される男。確かに、彼女が見てきたどの芸能人よりも美しい。ただし性格は冷たい。
手縫いのシャツに、端正な黒いネクタイ。ナイフとフォークの所作まで上品で、黒曜石みたいな瞳が静かに光る。
星野結花はごくりと唾を飲み込み、心の中で呟いた。
――この顎のライン、ナイフみたいに鋭く整ってる。
新山晃が視線を上げた。
星野結花は慌てて目を逸らし、皿の野菜をつつく。
次の瞬間、新山晃が椅子を引き、星野結花を自分のほうへ寄せた。
「……な、なに」
星野結花は喉を鳴らし、男の深い瞳を見上げる。
新山晃は彼女の髪を整え、耳元へ低く囁いた。
「そんな目で見るな」
「食事がしたいのか、俺が食べたいのか分からなくなる」
「げほっ……げほげほっ!」
星野結花は咳き込み、目を見開いた。
――このクズ男、普段は黙ってるくせに、言うと心臓に悪い!
新山晃は口元をわずかに上げ、濡れた布で骨ばった指を拭うと立ち上がった。
側にいた山口昭介が上着を差し出す。
「新山社長」
――出かけるの?
星野結花は瞬きをする。
――じゃあ、しばらく自由じゃん。
新山晃は星野結花の小さな企みなど気づかないまま、腕時計を一瞥して出ていった。
彼は商談の予定を押しのけて、彼女を迎えに行った。収録後、余計な被害を受けないように。
星野結花は遠ざかる背中へ、心の中で小さく勝利の合図を出す。
皿を押しやり、ハンバーガーにかぶりつく。オレンジジュースをちゅっと吸い、窓の外の景色をのんびり眺めた。
……。
RGグループ本社、66階。
大きな窓の前に、新山晃が立つ。片手をスラックスのポケットへ入れ、もう片方でスマホを耳に当てていた。
「受理証明書は見たはずだ。これ以上、電話するな」
冷たく言い捨て、通話を切る。
ソファには、グレーのスポーツウェア姿の男がだらしなく寝転がっていた。スマホのニュースを読み上げる。
「『人気女優・星野結花、授賞式でつわり。父親は今泉圭介疑惑?』」
男は面白そうに起き上がった。
「星野結花って、二か月前にお前が寝た女だろ?」
綾野大翔が下品に笑う。
「もう別の男の子を妊娠か?」
新山晃は黒曜石の瞳に何の色も乗せず、スマホをデスクへ放り、書類をめくった。相手にする気はない。
綾野大翔は顎を撫でる。
「でも星野さん、確かに美人だよな」
「美人だな」
新山晃は視線を上げ、冷たく言う。
「だから何だ。お前に関係あるか」
「晃!」
綾野大翔が急に身を乗り出す。
「妊娠8週って、二か月前だろ?」
「まさか……お前の子じゃね?」
「昭介」
新山晃は目も上げずに命じた。
「偽父親のトレンドは消せ」
「承知しました。すぐに」
山口昭介は頷き、部屋を出る。
「お前、真父親だったのかよ!」
綾野大翔の顔に、妙な崇拝が浮かぶ。
「結婚相手って彼女?」
「彼女じゃなければ、お前か」
新山晃は不機嫌を滲ませた。
